伐採
山人

 八月中旬から十月初旬まで、延べ十二日間の登山道や古道整備に出向き、そこそこの賃金を得た。夜明け前にヘッドランプを照らし、山道に分け入る時の締め付けられるような嫌な感じを幾度か重ね、ようやく解放された。さらに作業中は脈抜けの不快を感じながらの作業であり、身体の異常に怯えながらの作業であった。
 一〇月四日、最後の作業箇所である守門岳大池登山道除草を終えたのだが、その感慨はあまりなかった。高揚する気分ではなく、むしろ平坦な安堵感とでも言おうか。一〇〇パーセントの健康ではないにもかかわらず、よくやれたものだという自分の体への感謝である。
 一〇月十二日から、杉の木の樹齢四~五〇年物の切り捨て間伐が始まった。暗い杉の林に日光を与え、より健全な林にするために、混みあっている部分を伐採する作業である。伐採対象木には赤テープが巻かれ、根元にはナンバープレートが貼り付けられている。 
 十二日の現場は木が混みあっている箇所で、倒す場所がないほど密になっていた。杉の木の三密四密である。一本目、切り始めるが、ゆらっと傾いただけで隣の木の枝に阻まれ、動かなくなってしまった。こういう場合は本来専門の機具で索引するのが鉄則なのだが、手間が掛かりすぎるため現実に行うことはない。かなり危険で、本来禁止されている玉切りを行う。つまり、杉の木の根元の方からダルマ落としをチェーンソーで行うのだ。上側から切り、もう一方は下方から切り上げることで杉の木はゆらりと切断されるが、どっちに転ぶかわからない。チェーンソーで切り込みを入れ、大木をヒラリと除けながら、地面に横倒しになるまでこれを繰り返す。午前中はこんなのが何本も続いた。脂汗のような嫌らしい汗が湧き出てくるのを感じつつ、午後からは次第に素直な木が多くなり、さほど苦労はしなかった。
 そもそも、なぜ昔の人が苦労し、杉苗木を植え、枝打ちや周りの雑木の除伐など長年管理したものを伐る必要があるのかという事について少し触れておく。本来、野生の杉は太く、枝を十分に張り、私たちのイメージする長くひょろりとしている形状とは違うという事である。つまり、杉のすらりとした形状は、人の意思によって樹木の生長特性を一部制御した結果の姿なのである。苗木で植える杉は三十センチから五十センチほどであろうか。それを地拵えした自然の地形に、唐鍬で土を掘り込み、植え付けるのであるが、その間隔はほぼ二メートル置きである。この、密に植えることが、この後の杉の成長をコントロールするために必要になってくる。どうせ最後には一〇メートル置きくらいの間隔になる大木の杉であるから、最初から大きな間隔で植え付ければ、途中で切り捨て間伐をする必要もなく合理的だろうとする考えが浮かんでくる。しかし、大きな間隔で最初から植え付けしてしまうと、当然太陽光線はどんどん入り、小さい幼樹の杉は上方向よりも横方向にどんどん枝張りを大きくし、周りの草もどんどん繁茂してくる。その結果、枝の量が増えてしまい、節だらけの材ができてしまう。それを予防するために、杉は密に植えることで、周りの草の量を減らし、横への伸びを抑え、縦方向に、より伸びやすくする方法が効率的なのである。さらに年数が経つと枝打ちが開始され、カットされた枝の傷跡は材の中に包まれる。それを何年かのサイクルで行う事で節の少ない材が得られるのである。つまり、良い材を得るためには、土からの栄養と、上部からの太陽光線が最も望ましいのである。よって、杉の成長とともに、不良木や混みあっている部分、隣の木に成長を阻害されている木、それらは適宜カットされ、生き残った木のみが最終的に製品(主伐化)されるのである。 
 

 一〇月一六日、午前中休みを取り、長岡市の病院へと向かった。四月二四日の心房細動治療のカテーテルアブレーション手術からほぼ半年経過し、二週前に二十四時間心電図検査を行い、その結果を聞きに行くためであった。いつもの二九〇号線は通らず、二〇〇四年に被災した中越地震の復旧工事によって切り開かれた旧山古志村の新道を通り、小千谷市を経由して病院に着いた。中越地震では私の民宿も少なからず被災したが、それによって建設関係者が長期間宿泊してくれたりし、結果的にあの震災が経営の危機を救ってくれたのも事実である。すでに二十六年を経過した家業の歴史を辿りたくもあり、ときおりこのルートを車で走ることがマイブームになっていた。
 病院に着くと、通常のオーソドックスな心電図検査と血液検査、心臓のエコー検査をひととおり行い、自分の順番を待った。結果、脈抜けの症状はいくつか出ているものの、治療の対象にはならないとの事であり、一年二か月続いた血液の通りをよくする薬(イグザレルト)は処方されなくなった。術前の医師の説明では、半年完治率は六割で、その後の再発時に再度手術すると根治率は八割にアップされるという医師の話だったが、成功率六割の中に入ったという事なのであろうか。決して調子が良いとは言えないので、うれしいという気持ちはなかったが、一つの山は越えたのか、あるいは階段を何段か登ったのかはこの後になってみないとわからない。とりあえず肩の荷が一個だけ取り外された気がした。
 会計を済ませ、病院の玄関近くのレストランで味噌チャーシュー麺大盛りを注文した。店員はわずか一名の三〇代後半くらいの女性だったが、きびきびとした応対で切り盛りし、地味な店員という仕事をまるで職人のようにこなしていた。誰もがやれそうな職種であるが、その仕事を探求し、如何に完遂していこうとする強い意志のようなものが感じられた。きっと彼女も、余分な因子として切り倒される側の杉なのかもしれないが、その所作は美的にすら見えた。医師や看護師は残される側の木であるかもしれない。しかし、それらの人種を支える人たちによって医師や看護師は成り立っているとも言える。
 味噌チャーシュー麺はしかし、冷凍麺と思しき品で、決して美味いと言えるものではなかったが、そのきびきびとしたプロフェッショナルな女性店員の様が美しく、十分なトッピングに思え、それともども馳走と言えた。
 午後から少し遅くなったが、一名欠員の二名の作業員と合流し打ち合わせる。混合油を給油し予備運転をする。その間に残念ながら切り倒されるべく当該木を眺め、どちらに倒すかを判断する。三本とも順調に倒したが、四本目は隣の杉の枝が大きく張り出し、それが伐倒対象木の梢に直接絡みつき、倒れる途中にストップがかかるだろうと予想された。しかし、倒すべき箇所はそこしかなく、とりあえず作業を開始した。受け口を伐り、追い口を伐り始め、楔を打ち込む。杉の大木はゆらりと傾き動き始める。が、やはり予想通り隣の大きな張り出した木の枝に阻まれて止まった。ただ焦りはなかった。受け口のつる(蝶番となった部分)のストップした側の一部を切り、そこに楔二本を重ねて打ち込んだ。かさかさっと上部の枝は動き、やがてストップをかけていた枝は離れ、つっかえ棒を失った伐倒対象木は観念したように倒れてくれた。倒れた杉はいくつかに玉切り、枝を払い、土になるための化粧をほどこす。うしなわれた命であるが、別な命のために土に還り、養分になるという使命を与えられたのだ。
 午後四時、各自がもう一本という時間帯ではあったが、終わりにしようと声掛けした。あともう一本という焦りが事故につながる可能性がないとは言えない。余った時間はチェーンソーをいたわる時間にしてもいいはずだ。
 どんなにきつく危険な仕事であっても、最後は笑い飛ばし、ジョークを言い合う仲間がいる。それだけでも少しは救われるのだ。

















 


散文(批評随筆小説等) 伐採 Copyright 山人 2020-10-18 09:35:44縦
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