振り返ることⅢ
道草次郎

自助グループがその後どのような経過を辿り雲散霧消したのかはまた別の機会に触れるとして、今回はぼくが当時していた仕事の話を少しだけ。


ぼくは20代後半の時、これはどこかで書いたかも知れないが、ホームヘルパーという仕事をしていた。訪問介護とも呼ばれていて女性ヘルパーの数が圧倒的に多い職業だ。


まあ、なんでこの仕事を選んだかなんて実はこれと言った理由もないのだが、ただ何となく「人にやさしくする自分」というのをデフォルト状態と見なしてしまうフシが自分にはあり、これは今思えば思い込みに過ぎないのだけど、とにかく、その時は殆ど成り行きでそういう職に就いてしまったというのが本当のところだ。


じつに色々な利用者がいた。何から話せば良いかかなり迷ってしまう。


朝のごみ捨てのサービスをする為だけにわざわざ20キロ先から直勤して、玄関のチャイムを鳴らすと、いきなり「殺すぞ!」と怒鳴り付けられた時はさすがにびっくりした。あんまりびっくりしてかえって爽快だったぐらいだ。あの時の朝空の美しさは今でも覚えている。


それからこれは別の利用者だが、生活保護の金が入るとすぐにナンバーズ4を買って来いというのもいた。しかも、そのナンバーズ4が奇跡的に当選するのだから始末が悪い。気が付くと、ピカピカの新しい冷蔵庫なんかが台所にあって、なぜかヘルパーであるぼくが古い冷蔵庫の中の腐った食材を全部かきだすハメになったり…そんな笑い話みたいな事もしばしばあった。


あとは、蛆だらけのゴミ箱を隅々まできれいにしろと言われ、はい、と素直に言い雑巾で拭いている所に便所スリッパを投げつけられた事もあったし、床に落ちた糞尿みたいな得体の知れない塊を2時間も3時間も拭き続けたこともあった。鼠とゴキブリが駆けずり回る密室で恐ろしい異臭に苛まれながらゴミの分別をすることもしょっちゅうだった。昔水商売で荒稼ぎした90近いおばあさんの利用者にシコタマ絞られてしまい、自転車に乗って上司と謝りに行ったこともあった。


こうやって書くと辛い事ばかりのようにも見えるが、それは事実しんどい事でもあったのだが、家で引きこもりみたいな生活をしていたぼくにとっては何もかもが勉強だったし、家で考えあぐねている生活の方がよっぽど苦しいものだった。だから、来る日も来る日も多くの事を甘んじて受けた。


とりわけ覚えているのは末期の大腸癌を患っていた利用者の方だ。大変な強面で無口で頑固一徹、昭和の親父みたいな人だった。その人の目の前でヤカンの水をぜんぶひっくり返してしまった事があった。あの時は本当に死ぬかと思った。ヤクザみたいな人だし、末期ガンだし、ぼくの切る千切りキャベツに大いなる不満を抱いていたらしいし、全くチビりそうになったものだ。その件があってから程なくしてぼくは担当を外されてしまった。しばらくしてその人が亡くなったという話を人づてに聞いた時は、何とも言えない気持ちだった。優しくあるということの無力さは勿論、死期にある人もしくは死んだ人に対する自分の残酷な感情を知った。


それから、こういう人もいた。この人もやっぱり末期ガン患者で、人工肛門をされていた。なぜか部屋中に白いカサカサしたものが大量に落ちていたのが強く印象に残っている。その人の家に行くと、自分はその事ばかりが頻りに気になって仕方なかった。その人は古いポルシェを所有していて、ぼくが訪問する度にそれをとびきり安く譲ってやると言った。ぼくは「そんな高価なものいただけませんよ」とかわしていたけれど、後で先輩ヘルパーに聞いたら、どうやらあれは負債に過ぎないらしく、処分するにも金がかかるから玄関にああして置いておくより他にないという事なのだった。その人はいつも、どうしてもあじフライが食べたいと言った。提供できるサービス時間の都合上、最寄りのスーパーへしか行くことができず、しかもそのスーパーにはさんまのフライしか置いていなかった。だからいつも、「すみません、今日もさんましかありませんでした」と言わなければならなかった。その人はそんな分かり切ったぼくの報告を、少しだけ哀しそうな顔をしていつも聞いていた。


1月2日だったと思う。どうしてもと頼まれ訪問した時、もうどうにも悪い状態となったその人がソファに崩折れるように沈み込んでいた。床は血糊と人工肛門から溢れ出した汚物とで足の踏み場もない状態だった。自分の職務能力の限界をすぐさま覚ったぼくは事務所に連絡をした。するとものの10分で課長補佐が現れた。課長補佐はベテランのヘルパーで看護師の資格もあるから、ストーマの処置を速やかに行い、ぼくに床を綺麗にするよう指示をした。ぼくは言われるがままにそれをし、時間がきたのでその旨を課長補佐に伝えると帰っていいと言われた。その時見たその人の後ろ姿が、僕が見たその人の最後の姿となった。ぼくはその人にあじフライ一枚すら買ってくる事ができなかったのだ。

こういうことが日常茶飯事のように起きる毎日には言うまでもなく慣れてきていたし、場合によっては飽きてさえきていたのだが、そうしたさなかにありながらも、自身の真実の姿を直視せざるを得なかった瞬間が幾度となくあった。それは、こうした様々な体験を、個人的な幾つかの場面においていみじくも利用してしまった時である。


たとえば、先述した年明けに亡くなられた末期ガンの利用者の方についてがそうだった。それは当時付き合っていた彼女とちょうど上手く行っていない時期で、たしか友人何人かと食事をした時だったが、ぼくはなぜかその日は無口だった。元々複数人での雑談というものが極めて苦手ということもあったし、たぶん特に意味もなくそういう態度をとっていたのだと思う。きっと彼女にはぼくが面白くなそうに見えたのだろう。その事を後になって車の中で責められたことがあった。その時ぼくはうまく弁解しなければこの関係がいよいよ面倒な方向へ行きかねないと思った。だからつい、自分が今携わっている仕事の深刻さを引き合いに出してある種の同情を乞うたのだ。ぼくは人の血と糞尿を拭いてきたばかりなんだ、という感じに。こうした事を平気に行う自分というものを睥睨しつつ、一時のはかない関係修復の為だけに取扱いに慎重を期すべき事柄を姑息にも利用したのである。少なくとも、ぼくはそういうふうに自分を見た。そういう自分を意識しながら、それをしたと思う。そういった経緯の一切の中にある何か非常に深いもの、底光りをするようなものの存在を認めざるを得ない自分というものを直覚しながら、そして一方ではそれを全的に否定しつつ。


と、言いながらも日々は坦々と過ぎてゆき、やがてこのホームヘルパーという仕事にも限界を感じ始めたぼくは、そこから身を引くことを選んだわけだが、あの時の経験はいったい何だったのだろうと、時々、このようにして思い返すことがあるのだ。


少なくともぼくにとってあの経験は、ぼくの範疇を逸脱してはいない。何もかもが、独りで部屋にいた時と同じに、起こるように起こったのだと思う。ただひとつ言えるのは、感覚の鈍感な凡人にとって想像力を刺激するボタンを見つけるのは至難の業であるという事だ。なかなか独り部屋にいてはそのボタンがどこにあるのか分からないのが普通だから。


新しい感情を発見する為に、たぶん人は外の世界に出ていくのではない。おそらく人は自ら発見した素描のような直覚に想像力の肉を施す為にこそ外に出るのだ。今は何となくそんな事を考えたりする。これは間違っているかも知れないが、別に間違っていても一向に構わない。そう思えたという事それ自体が収穫であり、人生のスタートラインに立てたという自覚こそ自分が求めていたものだったからである。

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次回へ続く。


散文(批評随筆小説等) 振り返ることⅢ Copyright 道草次郎 2020-10-06 22:52:22
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