他人の車
道草次郎

たとえばちょっとした時、他人の車に乗らなきゃいけなくなって乗り込んだ途端、ああ人の匂いだなと思うことがある。その人の、ひいては生活者の匂いだな、と。消臭剤では隠し切れない微妙な生活臭及び体臭、あのそこはかとない異質な感じ、それらの一つ一つが混ざったようなむわっとした目に見えない何かが自分を取り囲むことがある。

ああ人の匂いだなと思う、と言ったけれど、じっさいはそう思うより先に嗅覚の方が反応をする。嗅覚が反応するということはつまりは脳が反応するということで、まず来るのはあからさまな拒否感だ。やがて不快感がそれに取って代わるだろうか。人によっては体に異変を生じる場合だってある。

何人での乗合だろうか。たとえば5人乗りのぎゅうぎゅう詰めならどうすればよいか。ほとんど置物のように固まったままどこか一点を見つめなければならないかも知れない。もしくはひっきりなしにお喋りを続けるしかないかも。ダッシュボードに置かれたゆるキャラにオアシスを求めても無駄だろう。きっとそれ以上にこの社会の匂いの圧力は凄まじいはずだ。感受性の強い人は耐えられないかも知れない。なんの前触れもなく降車してしまうかも知れない。しかし、だいたいは我慢するだろう。変な気持ちの悪い汗なんかをかいたりしながら座っているのだ。

でも、そんなことを何年も何年も続けていると、段々それにも慣れてくるような気になってくる。ああまたこの匂いか、と。ああまたこの匂いなんだな、と。そう思う事でなんとか自分を落ち着かせていく。いつからかそんな事ちっとも考えなくなる日もくるかも知れないとすら思ったりする。そういうのをあんまり気にしない人と楽しく車でお喋りなんかするようになるかも知れない。自分もだいぶ角が取れてきたななんて思ってみたりするかも分からない。

でもぼくは、どんなに自分が色々な事に慣れてしまったとしても、自分の車に誰かを乗せる時はこういうことを言うんだろうと思う。

「気楽にしてください。しばらくは窓を開けておきますよ。ところで、おかしな事を言うと思われるかもしれないが、この車の匂いは元を辿れば外の地球の匂いとちっとも変わりませんよ。鼻腔をせめるよく分からない有機物の匂いや、嗅いだことのない香料、革張りのステアリングカバーの手触り、それから後部座席の座布団から舞い上がる塵にいたるまでぜんぶ地球の何処かにあったものを再生産しただけです。これらの匂いや見た目や雰囲気に記号を与えるのは退屈だからよしましょう。でもあなたがそうしたいならずっと眼をつむっていても構いません。黙っていてくれても一向に気になりません。途中で降りたっていいんです。ぼくはそこらで待ちますよ。ぼくの事なんてただのジャガイモだと思ってください。そんな大人が一人ぐらいいたって良いじゃないですか。」

ぼくはぼくの仕方で社会に復讐を試みるのだろうか。蟷螂の斧。なんの意味もないかも知れない。それでもぼくはこうするより他にしようがない人間だ。大人たちはみんな色々な事が済んだ後の生を生きている。少なくともそう自分には見える。ぼくは自分のやっていることが大人のする事とは全然思えないが、全体の中では別に取り立てて言う程の存在でも無い気もする。ただ目の前にあるものの輪郭を手で撫でたい子どもなのだ。なぜそうするか。自分には動かせる手があり、目の前には触れる何かがあるからだ。

どうにも、ひとりの人間のすることは複雑なのか単純なのかよく分からないものだ。ただ一つ言えるのは、自分を肯定しない空の下にいまだ生きたためしがない、というあっけらかんとした気持ちが胸にあるっていう事ぐらいだろうか。



散文(批評随筆小説等) 他人の車 Copyright 道草次郎 2020-10-05 13:02:05
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