9月11日の付箋
道草次郎

 今日は落ち込んだことがあった。
 職業訓練の筆記問題の算数の問題が半分ぐらい出来なかったのだ。事前に例題で連立方程式の解き方を思い出しておいたのに、小数点が混ざった乗除の計算をする際、約分の時に必要な24÷6=4という計算に1分を費やしてしまった。たぶん、頭が回っていなかった。中学の数学までは問題なく解けると踏んでいたのが間違いだった。頭が思っているよりも回らなくなっている。
 とくに、計算問題に使う頭の機能が極度に衰えている。ショックを拭うことができず、面接が始まるまでの10分の休憩のあいだに自由律の俳句を22句作ってしまった。それを覆面の監督官にこっそり見られてやしないかと内心ビクビクしていたのだが。面接も思っていたほどうまく話ができなかった。面接官にじゃあこれからあなたのアピールポイントを言ってくださいと言われ、軽く頭が真っ白になった。
 数年前なら適当にあることないことペラペラ言えたのに今日はダメだった。もっとも口から出まかせはどうせ面接官には見抜かれる。だからマイナス評価だったのだろうが、その時は少なくともこちらとしては平常心だけは保てた。脳の機能に変容がみられることを自覚せざるを得ない。人間は年をとると、あるいは服用している薬如何によっていくらでも変わってしまう。それを痛感した一日だった。

 不幸や憂鬱を書くことに慣れすぎているせいか、日常に、小さな驚きが転がっていることをつい見失いがちだ。意気消沈して帰っている途中、車窓から空き地に疎らに生えるセイタカアワダチソウが見えた。
 給食センターが隣接しているその空き地には、何台かの軽トラックとショベルカーが停められていた。ぼくはその空き地をぼんやり眺めていた。他にみるものも無かったし、空き地の向こうのパチンコ屋の派手な看板を見るよりはずっとマシだったからだ。
 セイタカアワダチソウはくすんだ汚い黄花を咲かせていた。南風に揺れていた。その風に吹かれて一匹の美しい蝶が舞っていた。蝶は空き地の入り口の方からやってきて、はじめは国道を走るトラックや乗用車の風圧に弄ばれていたのだが、やっとのことで空き地の真ん中へたどり着いた様子だった。セイタカアワダチソウの先っぽにとまると、少し落ち着いたようだった。
 次の瞬間ふたたび蝶が空に飛び立ったかと思うと、一羽の鳥が急降下してきてその蝶をさらっていってしまった。ぼくはその一部始終を車窓から見た。ほとんどポカンとしてしまい、さりとて心に何かはげしい感情が起こるというのでもなく、しばらくは茫然とするばかりだった。
 ところが少し時間が経ってくるとぼくの胸はドキドキと波打った。全身に新鮮な血が巡るのが感じられエナジーが身内に滾り出すのが分かった。
 普通に例えるならばそれは感動だった。予期せず目撃してしまった命のドラマだ。ぼくは午後の間中ずっとほとんど何も手につかず、ただぼんやりと椅子に座っていた。何も言うことはなかったし、書くこともなかった。時計の秒針だけが静かな部屋に唯一の音を刻んだ。
 ふと、一億五千万キロの彼方で今この瞬間にも燃えている太陽のイメージが浮かんできた。そして蝶の運命のことを思った。



散文(批評随筆小説等) 9月11日の付箋 Copyright 道草次郎 2020-09-12 00:31:23縦
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