未日記
道草次郎

8月9日。国民年金保険料の免除申請の仕方がわからない。それから、雇用保険の手続きに必要な事の一切がもの凄く煩わしい。最近は色々な生活処理能力が目に見えてガクンと低下してきている。大事な郵便物や書類の類をことごとく行方不明にしてしまうこともよくある。


ぼくは医者に言わせるとADHDであるらしい。いつか試しにやってみた診断テストで、質問項目に対しいたって真面目に回答してみたところ、その合計点は赤いラインの遥か上を指し示していた。今まで生きてきた中で獲得した最高の得点といったら、昔近所のジャスコでやったワニワニパニックの97点ぐらいなものだというのに、人生ってやつはじつにアイロニカルに仕上がっている。


とにかく先生はこんなことを言っていた。「ADHDもしくはその傾向が原因となって様々な社会活動ことに仕事面でのそれに影響を及ぼしている。当然、ケアレスミスや業務の遅滞等が頻発するから同僚や上司に叱責される。だいたいの場合、ADHDの人は叱られたり窘められたりすることに凄く敏感だから、これが抑うつ状態を招く要因となる。だから、要するに今のあなたの抑うつ状態はADHDに拠るところが大きいんですよ。」とまあこんな具合だ。ぼくはぼくで、ああそうですか。ではいつものクスリをください。お世話さまでした。こんな調子でいつもの診察を終わらせてしまう。けれども、「あ、そう言えば前の職場に提出しなければならない傷病手当金の申請書類、あれだけは先生ちゃんとお願いしますね。記入漏れは書類不備になります。下らない返戻だけは勘弁してほしいんです」そういう念押しだけは欠かせない。それはひとえに数え切れないほどのウンザリな実体験ゆえである。


それにしても、最近は本当に生活が乱れている。ものをちゃんと元あった場所に戻したり、次の人のため新しくトイレットペーパーを補充することをつい忘れてしまう。生ゴミをそのつど臭いが漏れないよう古新聞で丸めてからゴミ箱に入れることも怠りがちだ。大事な要件の電話のときは必ず傍らにメモとペンを用意していたのに、それもなおざりだ。人の名前を覚えたり(もっともこれは昔から非常に苦手だったが)、必要な手続きはなるべく早めに済ますこと、映画をちゃんと最後まで鑑賞すること、ご飯を落ち着いて食べること、飲み終わったらペットボトルのラベルやキャップを面倒くさがらないですぐに外すこと、服をタンスに入れることや財布に不要なレシートを残さないこともできていない。買い物の時なんてメモ書き自体を忘れることもしょっちゅうだし、車や家鍵の在り処がなかなか定められない。毎朝ちゃんとヒゲを剃ることすら、今のぼくは全然よくできていない。


まったくどうしたことか。以前からこの様ないい加減さや抜けはあったにはあったが、ここまで顕著ではなかったと思う。


もっとも前職では機械オペレーションやフォークリフトを使った運搬、その他雑務を受け持っていたのだが、よくしてくれた先輩いわく、お前はまあ普通だとのこと。「この前のやつは、典型的な発達障害ってやつでむいてなかった。マルチタスクってのがそっくり抜け落ちてて、あれをやってろというと1時間も2時間もずっとそれをやってたよ。最後は会長や本部長にも見放されて、ある日、その時の現場で一番意地が悪くて凶暴なゴリラみたいなやつに休み時間なのにつかまった。で、とことん厳しく叱責されてそのまんま病院へ直行さ。もちろん辞めちまったんだけど、それに比べりゃお前はまあふつうだよ」と、そんなことを言っていた。それを聞いたぼくは正直、内心ホッとした。卑しい心理というやつだ。往々にして人を生かすのはこうした心理だろうか。であるならば、かなしいことだ。かなしい?…けれども日々は続きまた太陽は昇る。それさえもかなしいというのなら、おい、時間を停める魔法や昇らない太陽を神様にお願いするしかないんだぞ。(つまらない独り言である。)


ところでさっき話に出たゴリラみたいなやつだが、あれにはぼくも閉口した。新人という新人を片っ端から痛ぶりそのくせ上役にはうまくとりいるような卑しい奴だった。ぼくも散々やられたが、ある時あんまり頭にきたので直属の上司をすっ飛ばして本部長と社長に直訴したことがあった。夜勤への引継ぎの時、ぼくが選別機のエラー音を無視してゴミ袋を片付けようとしたことが余程気に入らなかったのか、そいつは持っていた空のコンテナを工場いっぱいに響き渡るほどの高音で以てコンテナ置き場に叩きつけた。処理しきれず溜まっていた梱包用のビニール袋をものすごい勢いで掻き集めると、肩が脱臼するのではないかと思うほどの渾身の力を込めてゴミ箱につっこんだりした。もちろんぼくの目の前でだ。ぼくは顔には出さなかったが内心笑ってしまい、本気でそいつの肩の具合を考えた。それにしてもパワハラという言葉は奴の為にあるんじゃないかと思ったが、けっきょく上役はぼくの上訴を取り下げてとりあえずの経過観察を言い渡した。ほんの少しの同情と全然現実味のないゴリラの異動話なんかをチラつかせて。

特段がっかりもしなかったけれど、どうも面白くないから古参のKさんにゴリラの凶暴なる生態話の顛末を話して聞かせたところ、「おい、本当のゴリラってやつは世界一優しい生き物なんだぞ。ゴリラに謝れよ」とたしなめられたことが、今思えば、あの職場での唯一悪くない思い出だったりする。


とりとめなく書いてきたが話の行先がよくわからなくなってきた。なんだっけ、ああADHDのことだ。とにかく医者のいうことなんかまったく適当というか的外れというかそういう話だった。あれも商売だからしょうがないと言ってしまえばそれまでだが、それにしてもどうも腑に落ちない。医者は、少なくともぼくがかかっていたあの医者はいつも草臥れているように見えたし、ひっきりなしにやってくる患者に向かって毎度毎度同じことを繰り返すだけの、滑稽を絵に書いたような人だった。


かつてかなり高額の料金を払ってカウンセリングをしたこともあるのだが、けっきょくその感想は近所のおじさんの方が余っ程含蓄のあることを言いそうだな、それだけだった。カウンセラーに言ってやりたかった。それであなたは誰にカウンセリングをしてもらってるんですか?と。誰もみんなおかしくない人などいなかったし、事実そうだった。寛解期にある人が急性期にある人の話に耳を傾けてふむふむと顎に手をやること、それをカウンセリングと呼ぶのだと本気で思ったものだ。おかしくないのは、まあ待合室の観葉植物ぐらいなものだった。受付の女達はたいていおしゃべりで、愛想が悪く、いつも諦めていて、土曜日が来るのが待ち遠しすぎて却って仕事に打ち込んでいるかのように見える程だった。熱帯魚の大きな水槽だけはなぜかいつも完璧なる正常さを保っていた。入口の回転ドアがまわり悩める人たちを招き入れるたび、クマノミというカラフルな魚が偽物の水草のそばで忙しなく動いていた。


とにかく話は最近のこの生活の乱雑についてだ。ぼくはたしかに元々大雑把でいい加減な性格だったかもしれないが、どうやらその傾向は歳を経るごとにより際立ってきたのかもしれない。それは、なんというかやはり嫌なことだ。非常に困る。だってその傾向が増していけばいくほど、負わされる責任は重くなりますます複雑なものになっていくのだから。それは当たり前だ。年を取ればそれに比例して色々と面倒なことが増えることは誰でも知っている。


まずやらねばならないことは、何はさておき部屋を片付けること。もっといえば、いつも使っているバックの底に汚く散らばっているふにゃふにゃの絆創膏や一回使ったきりで放置されたコロン、インクの出ないボールペンや消しゴムの滓、百均で買った修正テープの残骸、古くてもう飲まない方がいいロキソニン錠などは捨てた方がいい。


それから、はじまる。それからしか、おそらく始まらないのだ。それをすることはぼくにとってはたいへん骨の折れることだけれど、やらなければいけない。これはもう、どこかおかしいのではないかとか、ADHDや抑うつ状態のせいなのではないかとか言っていられる話ではない。今の状況はだいぶ切迫している。平気なフリをしているのは直視に耐えないほど現実が惨憺たるものだからに過ぎない。


医者に相談すればコンサータという比較的高額な薬を勧められのは分かっている。以前それを服用した際、何かの効果なり変化があったとは到底思えなかったので、もう一度相談することなんて何の意味もないと思っている。何よりも、薬というのは飽くまでも補助的な役割を担うものに過ぎないことを忘れてはいけない。


『ゴッホの手紙』という告白文学の古典ともいうべき作品があるのは周知の通りだが、そこでゴッホは弟のテオ宛にこんな内容の手紙を送ったそうだ。



曰く、「病気であるか健康であるかということは、それはおじいさんであるか若者であるかと、そういうことだ。むしろ俺は治りたいなんて思っていない。自分は真剣に病気になろうと思っている。とことんこの病気と向き合って、その病気を生きようと思っている。そのようにして本当によくよく病気というものを考えれば、人間は二度と病気にはならん。」


あのゴッホを引き合いに出して自分の今の窮状を重ねそこに何らかの意味やヒントを見出すなんて、それこそ身の程知らずも甚だしいのだが、どんな時でも人は何かしらからのきっかけを掴まなければならないのもまた事実。


だから、ものの順序としてはまずもう一度『 ゴッホの手紙』を読む。そうしてからやっとこの散らかり放題の部屋の片付けに着手する、とこんな流れになるだろうか。


はぁ…つくづく自分は厄介な性だと思う。要するに話は単純なのである。本から得るきっかけはどれもきわめて行儀が良く、自分のことを無遠慮に脅かしたりしないので手を出しやすいというだけなのだ。とはいえ、変化は常に他者や実生活の中からやってくるのだとは限らないからこれもまた不思議だ。


世界の実相はおそらく、現実の活動やそこから発せられる波紋のような影響、その影響によって変化し続ける行為、その行為が遡及的に及ぼしていく影響の総体だろう。そして知識もまた現実の中の人間を通って全体へと波及する。知識も行為も混淆して一体となるからそれらは引き離せない。

世界は大きな混沌とした何かで、ぼくたちはその中でただ何事かの行為をなすのみである。ある時は本を読み、またある時は瞑想にすら耽る。それらの何もかもが本当で、何もかもが嘘であり、しかしたしかなことが一つだけある。それは、たしかなことは一つもないという人を喰ったような結論だ。


ゴッホの自画像を観ていると、ぼくは時々この人を喰ったような結論の話を思い出す。あの顔は世界そのものの顔なんじゃないかと、そう考えずにはいられないのだ。とは言えやっぱり免除申請はちゃんとやった方がいいに違いない。必要な薬も飲まなきゃならないのも本当だ。

(長くなり過ぎた。ここはひとつ駆け足で締め括る。)


うむ、宇宙はバランス。天の川銀河だってうまいこと楕円形だし、アンモナイトの黄金比を見ればどうしたってもう少しはちゃんとした方がいいに決まっている。そう思うのが、自然な成り行きというやつだろうか、なんて。

8月10日未明。とぼけた蝉声、飄逸。


散文(批評随筆小説等) 未日記 Copyright 道草次郎 2020-08-10 13:08:37
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