M君
道草次郎

世の中にはたぶん腐れ縁というものがあって、ぼくにしても、そうした抗することのできない不思議な力の命ずるままにこんにちまで生きてきたと言っても嘘ではない気がする。



ぼくには大学時代からの友達が一人いた。同郷のM君である。M君はたぶん精神を病んでいた。M君は明らかに父親との確執に悩んでいたし、子供のころに学校で味わった嫌な思い出にずっと苛まれ続けていた。たびたびM君は幼稚園や小学校のころの自分が体験したことを、あたかも昨日体験したようにぼくに話した。ぼくはいつもそれを黙って聞いていたが、そんな話を聞くのはたぶんぼくだけで、彼としてもそんなぼくという存在が必要ではあったらしく、二人の関係は不思議と持続した。


彼は思いつきで行動するタイプで、行動力はあるのだがきわめて計画性に欠けるところがあった。内モンゴルから来た中国人留学生の家に招かれて手作りの水餃子をご馳走になった日も、彼女がクリスチャンであることを知るや(思うところがあったのかそれともただの好奇心からだったのかは不明だが)、礼拝に連れて行って欲しいと言い出したことがあった。


ななし君も行こうよと肘で小突かれたので、ぼくは少し躊躇いながらもいいよと言ってしまった。その時のぼくは何でも良いからとにかく変化が欲しかった。だからこんなムチャクチャな提案も受け入れてしまったというわけだ。


翌日、日曜日礼拝の朝、教会の前で待ち合わせすることになっていたのについに彼は姿を現さなかった。みごとに約束をすっぽかしたのだ。これにはさすがにぼくも閉口したのを覚えている。


内モンゴルから来たリンさんは故郷にいる時から熱心なクリスチャンだった。日本の地方都市に留学生として住んでからもそれは変わらないようで、土地のプロテスタント教会へ時間を見つけては通っているようだった。


細かいことはすっかり忘れてしまったが、身なりのちゃんとした女の人が教会の席に何人か座っていた。そこには、他の誰とも話さずにじっと何かを待っている雰囲気が漂っていた。そして、賛美歌を一緒に歌ったあと牧師が行った説教(たしか『ヨブ記』についてであったと記憶する)に、妙に感動したことも記憶の片隅に残っている。牧師夫妻は驚くほど優しく、また良さそうな人で、またいつでも来てくださいと言ってくれた。


リンさんとは教会の前で別れた。ぼくは自転車をこぎながら帰りがけに近所のスーパーで買っていくつもりの鳥むね肉ときゅうりのことを考えた。棒棒鶏バンバンジーの素はたしか引きだしの奥にあったよなとかそんなことも。


家に帰ってから電話でM君を問い詰めると、M君は軽い感じで「ごめんごめん起きれなくって」と言ってその場を何となく誤魔化した。ぼくはそれ以上何も言う言葉を見つけられなかった。腑に落ちないというのはたぶんこういう時に使う言葉である。


もっとも、ぼくもぼくでおかしな人間なので、それからも彼とは時々ドライブなどをして共に時間を過ごした。相変わらず幼稚園の頃の自分がされた嫌だったことのリストを携えて彼は生きていた。ある時はなんの前触れもなくトンネル走行中にパワーウインドウを開け絶叫してみたり、雲行きが怪しくなってきた山の入口で、軽装のまま登山をしようと言い出したりした。


ぼくはいつも車の助手席でハラハラしていたが、彼の陰惨な思い出話にはじつによく耳を傾けた。そんなおかしな関係が、あたかも、ぼく自身の鬱屈した学生生活への復讐でもあるかのように続き、やがて日々は流れていった。



そんなM君を去年、地元のゲオの駐車場でみかけた。ぼくもM君もお互いの存在に気付いていたものの、けっきょく声をかけ合うこともなくその場は過ぎてしまった。帰ってきてアパートの駐車場に車をとめると、ぼくの手はいつもより少しだけ汗ばんでいた。


勤めていた菓子製造工場を辞めたM君が、何年か前から地元の自立支援の作業所に出入りするようになっていたことは人づてに聞いていた。ぼくはぼくで結婚をしていた。妻に彼のことを話したことは一度もない。


歳月は二人の男のあいだに大きな溝を作ってしまったらしい。学生時代なら腹を立てながらも跨げていた溝は、今では向こう岸が見えないほどに拡がり、大河となってしまった。


ぼくはいつか再びM君と会うためにどこかでボートを調達してくるのだろうか。そもそもM君はぼくにもう一度会ってくれるだろうか。それを知っているのも、やはり歳月だけなのだろう。でも、今度彼に会ったらなにもかもバカやろうと言ってやりたい、そんな気がする。お互いまったく仕方がないよなあと言って一緒にコーヒーでも飲みたい、とも思ったりする。


あの頃のように、愚かで情けなくて子供っぽい燃えかすがまだ二人の中に残っていればいいなと思ったりするのは馬鹿げているだろうか。



最後にM君の人となりを記しておきたい。
M君はどんなときも、よわく、そして誰よりも優しかった。




散文(批評随筆小説等) M君 Copyright 道草次郎 2020-08-06 12:55:29
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