なしごころ
ただのみきや

散歩道

彼女は二つの嘘を連れ歩く
いつも同じコースで
一つの嘘は人懐っこく誰にでも尾を振った
一つの嘘はところ構わず吠えたてる
どちらも夜のように瞳を広げ
油膜で世界を包んでいた
彼女は二つの嘘を連れ歩いた
マスクにサングラス目深に帽子を被る
記号化の代償のように





戯曲作家

作家は悩んだ
様々な不幸と困難を用意はしていたが
いざ書こうとすると 筆が止まる
自らが神のような存在に思えて来て
過酷な運命を付与される主人公が哀れに思えた
つい手加減して逃げ道を用意したり
別の台詞に書き変えたり
いつまでたっても戯曲は進まない

主人公を見つめながら
四季は巡り
時は枯葉色に散り積もる
心が立ち止まったまま
作家は老いて往く
主人公いつまでも若く美しい
瑞々しいその苦悩は
夏の朝の
蔓草に捲かれた白百合のよう

作家は自分を戯曲に登場させて
主人公の助けをしたかったが
ついに 出来なかった
作品の中ですら
自分が愛されることはない
堂々巡りの果ての
行き止まりはいつもそれだった
やがて彼は一匹の猫
いつも主人公を慰めて
膝に乗って寄り添う猫を登場させた
最後の願いとして

戯曲は未完のまま
女性は猫を膝に乗せ
不安げに未来を見つめている
絵画の中とよく似た
透明な不可能性に密閉された可能性の
最終行
境のない空白を背にして






頬を掠めるマルハナバチ
勤勉な彼らは生涯に渡り
忘れ物も落とし物もしない
ただ 最後に一度
帰宅を忘れ
自分 あるいは
いのちを落とす





感染者

わたしはとてもせっかちだが
世の中はもっとせっかちだと思う
わたしもまた何かに感染しながら
良からぬものをまき散らす
悲しいとか寂しいという言葉で
伝えられる気持ちなら
ただツイートすればいい
時代の一体感を得たいなら
海月のように流れればいい
悩みとは執着
取り囲む不条理に対抗し
立て籠もった理想世界
だが現実は素晴らしいものいつだって
素朴な女性の素顔なのだ
そうして全てが脚色
あなたはあなたの真実を
恋人か新妻のように愛撫すればいい
やがて矛盾を孕み
悲しみや寂しさが産声を上げる時
またしどろもどろ書きたくなるのだ
せっかちにならなければ
言葉は歩みも遅く
萎えた足を引きずって
いい匂いがする
自分しか存在しない追いかけっこで
ゴールなんて在りはしない
始めたからには地獄
あなたの帽子には誰の名が縫い付けてある?
本当にあなたはあなたなのか?
気にしなければ天国
そうマイクロプラスチック
聖なる成れの果て
せっかちなあなたの中で
捕鯨船団が街を襲撃している
緑色の叫びが三半規管をトライアングルに変える
毛むくじゃらのその子はあなたに似ている
齧ったのはレモンじゃない
よく見てごらん
それがレモンに見えるのか
半月板にあててごらん
カナリヤを磨り潰すようにオルゴールが
ギクシャク歩き出す頃に
港色をした誰かの頬が
絵画の中の瞳よりも
後ろから心臓のベルを押すだろう
時針と分針を抉じ開けろ
一匹の雄のように的を得ろ
酸っぱいペンキ色をした嵐の中で
爪のない本が羽ばたいて
やわらかい真珠をぽろぽろ吐きだすと
いつも坂道を上るような
背中を曲げた隠喩の群れが
古代の祭壇で生贄にされる
匂いだけが現代にも漂っている
だれもが知られない祭りに溶けて



                  《2020年8月1日》











自由詩 なしごころ Copyright ただのみきや 2020-08-01 21:28:46
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