カップ
山人
どうやら私は死んでしまったようだ。
私は葬儀場の天井に実体の無い魂としてぼんやりと浮かんでいた。なぜ死んでしまったのか、よく思い出せない。体調不良になったような気もするし、何かの事故にあったような気もする。普通、それほど昔ではない過去のことなど忘れるはずはないのだが、まったく思い出せないのだ。
一様に皆家族は泣いているようだが、泣いていないのも居る。まるですりガラスのようにぼんやりしているし、声もよく聞き取れない。
線香のむせるような匂いと僧侶のお経だけが堂内に響いていた。
ところで私はここに居るのか居ないのか?ふと実体を確認したい欲求に駆られた。眼球があるわけでもなく、つまり質量がないのだ。なんとなくだが透明色のような薄いもやのようなだるい感じがする。
お経が終わり、僧侶が説教を始めた。内容がまったくよく聞こえない、時折すすり泣くような声もする。妻であろうか、娘であろうか。もしかしたら・・・、いろんな思考が交錯する中、出席者がざわつき始め、式が終わったようだ。
出棺のときである。周りには見たことのある人が居るのだが、誰だったかわからない、これが死んでしまったからなのか脳味噌がないからなのか解らないが、特定できないのだ。
おそらく先頭を歩く人たちは私の家族達であろう、しかし、それも薄らぼやけて判別が出来ない。男女の姿さえも判別できないのだ。
火葬場で最後のお別れのお経が唱えられた。やはり誰だか解らぬが私の死の為に泣いてくれている人が居るようだ。
いよいよ私は肉体を失うときが来たようだ。
まだ田植えを過ぎたばかりの田園の青い空に、生の人の焼けた匂いが舞い上がる。あれは私だ、私が燃えている。そう思った瞬間、私は風にめくられ、瞬時に空へと押し上げられた。
魂のかけらのようなものがまだ私の肉の細胞に食い込んでいたのが、それが噴煙となって私の魂と合体したのだ。
これで私は完全に幽体となり、物質から逃れられたのだ。
死んだ後は賽の河原を渡り、天国か地獄に行くのだ。死後の世界の常識はそう言われていた。
かなり上昇したかと思うと、目の前には賽の河原という情緒豊かな場所など無く、未知の惑星のような不毛な大地があった。
有機体などの存在は感じられず、怪物のうめき声のような音が煙を伴いながら巨大な工場から発せられていた。
自分の意思とは関係なく、私は吸い寄せられ、いくつかの入り口がある、その一角に投下された。溶鉱炉のようなものがあり、私はそこに落ちていった。何も感じることはなく、自分が風船になり、勝手に突かれているかのごとくであった。
たぶん・・・何かに変えられてしまうんだろうか、なぜか知らないが、再び長い記憶を失う気がした。
*
雄太は来月結婚式を控えていた。妻となる由美と共に二人で住む家に引越しをし、荷物の整理をしていた。
雄太は大学を出ていないながらも、専門学校を出て市役所に勤務することが出来た。出世こそ見込めないが、地道にやれば家の一軒も建てれるだろう、慎ましい未来があった。
「ガス点くかな?」
「あぁ。たぶん大丈夫だと思う」
「そういえばさ、雄ちゃん、あんまりお父さんの話し、しないよね?」
「・・・」
お湯が沸くと由美はカップを二つ出し、インスタントだけど・・と言い、コーヒーを注いだ。
雄太は久々の肉体労働で汗もかき、インスタントコーヒーであっても美味く感じていた。
「オヤジにはよく罵倒されたよ。子供の頃やってたスポーツでね。俺に憎しみがあったんじゃないかって思うくらい。だからオヤジはあんまし好きじゃない・・・っていうか、厭だった。
でも、俺の職業のアドバイスくれたのはオヤジだったんだ。まじめに言うんだよ、ろくに全うな人生歩んでねぇオヤジがさ!、でも、その真剣さに俺は確信したんだ」
そういうと、最後の一滴を飲み干した。
「へぇー、そうなんだ・・」
二人ともカーテン越しに入ってくる秋色の風を感じながら、フローリングに直接体育座りをし、思い出話に花を咲かせた。
「さて、じゃぁ、またちょっとやろうっか」
「うん、カップ洗ってからやるね・・・・」
そういって由美は雄太のカップを持ち上げると素っ頓狂な声を出した。
「なに?これ?」
「なにってなに?」
見ると、雄太のカップだけ水滴がおびただしく付いている。
「冷たい飲み物を飲んだわけじゃないのにね・・・」
「そういえばさぁ、このカップって雄ちゃんと付き合い始めたときからあったよね?」
「ああ。大分古いよね」
由美はおどけて少し後ろ下がりし、雄太を指差し
「まさか、まさか?もしかしてまさかなの?」
「はっ!?、いみわかんねぇし」
雄太は指差しし、由美を座らせた。
「このカップはさ、オヤジの葬式の後、なんか知らないけど、コーヒーカップが欲しくなってさ、瀬戸物屋さんで買ったんだよ。ほかのカップに比べるとやたら安くてさ。でも何だか不思議な感じがしたんだよ。オヤジは嫌いだったけど、ちょっと味があって、肝心なところは単純で馬鹿だったオヤジになんとなく似ていたんだ、そのカップ。それにさぁ、そのカップ、なかなか割れないんだよね。最後の意地だったんだろうね、オヤジはモルヒネは使わないって言い張るんだよ。それに、何度も何度もうざくなるほど病室のベッドで説教食わせやがってさ。最後は言ってやったさ、おまぇなんか大嫌いだったよって・・・。でもさ、オヤジ、最後には涙流してさ、俺の手握るんだよな、参ったよ、俺。
何気に買ったカップだったんだけど、落ちても割れない、それに安っぽいグータラオヤジみたいで、何だか離せなくなっちゃったんだよ・・」
「雄ちゃん・・・」
由美が肩にもたれかかると
「きっと、お父さんの生まれ変わりなんだよ、そのカップ」
澄んだ、秋風がカーテンを揺らすと、カップが少し揺れた気がした。
二〇一二年 作
散文(批評随筆小説等)
カップ
Copyright
山人
2020-05-31 04:56:36
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