ある疑問
まーつん


「なぜ人は誰かを傷つけるの?」
 と、娘が問いかけてきた。それは、私が常日頃胸に抱き続けている疑問でもあった。

「それは、自分が傷つくことを恐れているからだよ」と、私は答えた。
 春の木立を歩きながらも、私たちの眼はいつしか下に向いていた。歩を進めるごとに小さく揺れる、おさげを結んだ娘の頭。それを見下ろしながら、私は今の答えを幼いなりのつたない一途さで咀嚼しているのが伝わってくるような気がした。

「どうして、人を傷つければ自分は傷つかないと思えるの?」
 再び問いかけてきた娘の言葉には、歳に似合わない利発さがあった。

「相手が自分を恐れるようになるからだ。人は恐れる相手を安易に攻撃しない。恐れる相手に出会った時、人は逃げるかへりくだるかの選択を迫られる」

 娘は眉をひそめたようだった。
「そんなの、どっちも嫌だよ」
 楠の枝から落ちていく一枚の葉。僕はさらに続けた。
「だけど、もう一つの選択肢がある。勇敢に立ち向かうという道だ」
 
 娘はしばらくその答えについて考えているようだった。そして失望した声で言った。
「じゃあ、結局相手を傷つけるんじゃない」
 その通りだった。だが、娘は間違ってもいた。僕はこう答えた。
「それは立ち向かう相手がだれかによる」

 娘はしばらく黙ってから問い返した。
「どういうこと?」 
 僕は答えた。
「もし自分の中の恐れに立ち向かうなら、そしてそれを乗り越えられたら、君は相手と和解できる。だが、自分の中の恐れに屈服するなら、君は相手を傷つけることで、復讐を遂げるだろう」 

 娘は立ち止まった。そして怒りを孕んだ眼で僕を見上げた。
「自分を傷つけた相手と仲良くなんかなりたくない」
僕は静かに答えた。
「だけど、自分を傷つけた相手の本当の姿が、君には見えているだろうか ? 」
「見えているよ。ただのいやな奴だよ」
「なら、その人はなぜ君に嫌なことをしたのだろう?」
「そんなこと、知らないよ。あたしのことが嫌いなんでしょ」
 娘の声はそう叫んでいた。どこかで鶯が鳴き止んだ。

「その人は、君のことを嫌いになれるほど君のことをよく知ってはいないかもしれない。だって本当の君を知ったら、嫌いになんてなれないはずだから」
 そう言って屈みこむと、僕は娘の頭を撫でてやった。
 娘は悔しそうな表情を浮かべて泣き出した。ピンと伸ばされた両腕の先で小さな手は拳を作り、微かにふるえている。僕は娘を抱きしめながら、自分が最高の偽善者になったような気もしていた。ある宗教はこう語っている、「汝の敵を愛せ」、と。僕は今、本当の敵は自分の中にある恐れなのだ、と娘に伝えた。だが娘がそのことを真に理解するまでに、どれほどの傷を心に負わねばならないのだろうか、と考えると、暗澹とせざるを得ない。 
 
 こうした知識は言葉ではなく、経験によってのみ身につけることができる。そして現代の殺伐とした社会は、そんな機会を惜しみなく娘に与えることだろう。いやむしろ嬉々として、悪意を持って投げつけるだろう。悲観的過ぎるだろうか。

 どこかで鶯が鳴き始めた。




散文(批評随筆小説等) ある疑問 Copyright まーつん 2020-05-24 13:12:37縦
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