メモ
はるな


週に3回か4回、自転車を15分こいで通っている花屋は大型マーケットのすみにあって、だからか、こういう時期でも営業を停止しない。でも場所はあんまり重要じゃないのかもしれない、街のなかにある花屋をみるとたいてい営業しているから。
春の売れゆきはよくなかった。三月あたりの歓送迎会の自粛あたりからはじまって、卒業、入学の花束の予約はほとんどなかった。そのかわりに、せめて花くらい、と小さな束を買っていくひとはぽつぽついたけども。冠婚葬祭や行事がなくなっても、草花は関係なく育ってゆくから、市場にお花が溢れていると耳にすることもある。事実、良いお花が信じられないような値段で入ってきたりもする。

花屋にくる人びとの顔ぶれはあんまりかわらない。3日おきに来たり、毎週同じ曜日にきたり、半月に一度、おなじ花を買っていったりする人びとだ。いつも部屋のどこかに花のある暮らしをしてる人びと。そして、お誕生日や記念日、お悔やみなんかの特別な花を買いにくるひとがいる。おまかせします、という言葉と、なぜかすこし決まり悪そうに花を抱えて帰ってゆくすがた。それから、イベントごと。春秋のお彼岸と夏のお盆、それから日本じゅうの花屋がいちばんいそがしい母の日。

夏を迎える店頭に涼しくゆれる花菖蒲、梅花空木。様々な種類のひまわり、咲けば散るビバーナム、芍薬、顔色を変えて可憐な矢車草。
花くらい買えばいいのよ、と言うひともいるし、花くらい買って行きたいんだけどね、と言うひともいる。
様々な意見が飛び交うなかを、受け止めたり、かわしたり、あるいは自ら矢を放ちながら、誰もがこの事象のただ中にいる。
ただ中にいる、と思うだけで身が竦むような臆病さを、いくつもの花瓶を洗いながら擦っていく。茶色けた茎の裾を切り落とし、あるいは割りを入れ、あたらしい水に活けていく、花は喋らないので(そして咲いて、枯れてゆくので)、わたしは救われる。
花くらい、と思う。花くらい、詩くらい、朝ごはんくらい。あったってなくたっていいのよ、と思うものが失われ続けると、生活もなくなってしまう。
あしたは休みで、家には娘と夫がいる、海のほうでは雨がふるようだ。わたしたちは、せまいせまいベランダに椅子を出してあまいパンを食べるだろう。


散文(批評随筆小説等) メモ Copyright はるな 2020-05-04 17:37:07
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