老いたアスファルトの波の上、無機質ながらんどうのクジラ
ホロウ・シカエルボク

世界は夜に満ち溢れ、天使は裏通りの潰れた酒場の店先で横になる、野良犬の鳴声には理由がない、欲望がないからこそうろうろと彷徨うのだ、ジャックダニエルの空瓶のカウベル、割れた舗装の上を這いずってる誰かの甘いドリーム、時間は壊れた文字盤とともに忘れられた、孤独なんてもう死に至るためのていのいいお題目だ、アルコールの花がそこら中で咲く、誰も他に暇を潰すための手立てを知らない、側溝の隅の汚れた硬貨みたいな存在があちらこちらに転がっている、自らが招いた悪夢のような日常を忘れるには脳味噌を麻痺させるしかない、それしかない、それしかない…いつだってやつらにはそれしかない、そう信じる気持ちがどんどん首を絞めていく、窒息する寸前になって初めて気づくのだろう、もう取り返せないその時になって初めて…メタリックなグリーンの日本車がバレエのようにカーブを曲がって消えていく、約束されたエンジンがすべてが裏切られる街路に爽やかなオイルのにおいを残していく、どこかの店で喧嘩騒ぎが起こっているらしい、くぐもった怒号、甲高い悲鳴、倒れるテーブルやスツールの音、激しくガラスが砕ける音がいくつも聞こえる、じきにパトカーはやって来るだろう、秩序は当然のごとく維持される、特にそれがギャラリーの多い小競り合いの場合には…チンピラにからまれたら迷わずやつらを呼ぶべきさ、取るに足らないことは誰も誤魔化そうなんて考えもしない―この世界はもう死んでいるのだ、物質的な効率や功績が功を奏す舞台ではその先に訪れる未来というものがない、たったひとつの価値観が壊れるだけでいい、アイデンティティは簡単に瓦礫と化すだろう、すべてが失われたあと、立ち上がろうとする力などもう誰も持ち合わせてはいない、数年前からそこにある鍵穴を壊された車のボンネットに座って、視覚障害者が認識する白色蛍光灯のような月を見上げた、そんな風に景色が歪むのはここが歪んでいるからだ、月は月のままそこに浮かんでいるだけだ、然るべき場所に行けば美しいそれを目にすることが出来るだろう、行き場のなくなった概念はすべてを歪ませる、君の在り方も、俺の在り方も、建築物も、路面も、花も…なけなしの愛すらも―ギャングたちはすぐに拳や刃物をちらつかせる、切れ味のいい言葉の持ち合わせがないせいさ、俺はやつらと揉めたことはない、だけどもしもそんなことになったら、そうだね…一説によると、殺す気が強い方が勝つっていうから、一対一なら負けることはないかもね、こんなこと言うと嫌がられるかもしれないけれど、殺す気なら誰にも負けない自信があるよ…自動販売機は破壊されている、防犯意識の高いコンビニで炭酸を買う、酔ってなんかいないよ、俺はいつだって素面さ、馬鹿になる時間がもったいないんだ、快楽を得るのになにか他の力を借りる必要なんかない、俺は自分でそれを作り出すことが出来る、想像力、それ以上の快楽なんてこの世には在り得ない―売春婦はきちがいとその気がないやつを見極めるのが上手い、俺に愛想を振りまこうとしたそいつは目が合ったとたんに踵を返した、悪いね…炭酸の空瓶を歩道に放置されたどこかのマーケットのカートの中に捨てた、もしかしたらそれで少しだけ幸せになれる浮浪者がいるかもしれない、マーケット―ここ十年くらいこの街にマーケットなんかないはずだ、マーケット…暗がりの中でようやく読めたカートに刻まれた店の名前には覚えがあった、ここから少し歩いたところにあった巨大な複合施設だ、確か数年しか営業しなかった―こんなうらぶれた場所にそんなもの作ろうとするほうがどうかしてる…俺はその場所が今どうなっているか気になった、数年前に取り壊されるという噂を耳にしてからどうなったのかまるで知らなかった、古い記憶をたどって俺はその場所を目指した、そこに辿り着くには半時間ほどかかった、取り壊しは確かに始まったようだが終わってはいなかった、縦長の巨大な建築物は半分を壊されたまま荒れた駐車場の片隅に横たわっていた、それは凝固したクジラの死骸のようだった、俺は車止めに腰を下ろし、その光景を眺めた、誰がここにどんな夢を馳せて、そしてどんなふうに破れたのかなんて想像することは出来なかったけれど、夜の中で、何の意味も持たず、何の目的も持たず、何の未来もなく横たわっているそれは、なぜだか少し美しいようにも俺には思えたんだ、今夜はここで朝まで時間を潰そうか…夜明けが来たときにはそれは少し悲しいものに見えそうな予感も少しはしたけれど。




自由詩 老いたアスファルトの波の上、無機質ながらんどうのクジラ Copyright ホロウ・シカエルボク 2020-04-02 22:02:11
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