ぼく
為平 澪

「吐き出してしまえば、その場で楽になれる場所」として、ぼくは作られた。
誰かの口から出る汚物、言葉も想いも退廃物も全て受け入れるための便所。

 ぼくは黙って暗い場所で口を開けていればよかった。美しくなろうとも思わなかったし、それどころか美しいというものがどういうもので、どういうことなのか、もう覚えてはいない。風も届かない。けれど風が吹いたなら、ぼくからは臭い匂いが流れると人は言う。ぼくの白かった服は、今では落書きと傷と落ちない汚れに塗れて、そのあとは、それを付けて行った人たちについて沈黙していればよかった。そしていつか、きれいに壊されてさっさと消滅することだけが、ぼくの一番望んでいた未来だったのかもしれない。
── その人が来るまでは…。

 その人はぼくの服を丁寧に手洗いして、ぼくの臭い口を濯いでくれた。白い服を着たその人は、とてもいい香りがした。ぼくとは遠い所にいる人だとすぐに分かった。その人は一日置きにぼくの体を洗ってくれる。やめてほしい、と思った。くすぐったい、と思った。そして、うれしかった。そんな喜びがこみあげてくる自分が惨めでしかたなかった。
── 期待させないでほしい。ぼくの所には汚いものが似合うのに。それを吐きにくる人のために作られたのに。君のように場違いで、ぼくより年下の、いつか世の中を知ってしまえば、ぼくがどういうモノであるかについて、一番先に土で隠そうとする階級の人にだけは、やさしくされたくなかった。そしてそれを「やさしさ」と認めたくもなかった。

 その人は一年を通して二日に一度やってきて、ぼくの服を洗い身体をくすぐり、口の中をきれいにしていく。ぼくはその人にお礼を言いたかったけど、ぼくの口は言葉を沈めることができても発することはできない。ぼくが存在できるのは、ぼくが人の捌け口として役に立ち、利用できるから、それだけだ。ぼくがいなくなってもそこに更地が出来るだけで、また置かれる新機能付きのぼく。全ての人にはそういう話なんだよ。何度も自分に言い聞かせながら、やってくるその人の優しい手と真心のようなものを感じて、夜になると泣いた。

 うれしいこととかなしいことが上になったり下になったりして、ぼくの中で処理して沈めることが難しくなり始めた。汚れてさび付いてやがて罅割れていくぼくの夢の先に、もっと深遠で、罅割れていないぼくの塊が輝いて見える。いやだ、そういうものをあの人に見せるのは! それを言葉にしようとしているぼくは、なんて卑しいのだろう…!

 あの人はいなくなった。
夜しか外に出ることができない人だった。陽の光に皮膚が耐えられない病気を抱えていたと噂で聞いた。夜に病院を抜け出して、バケツを持って徘徊するキケンな人だと人々は言った。

ぼくは言いたかった。
彼女は夜、ぼくの服を洗って身体を拭いてくれたんだよって。彼女は精一杯生きていて、みんなが使う一番汚い場所をきれいにしてくれたんだよって。そして今、人が指さすキケンな人として住民たちが彼女の体を切り刻み、ぼくの口から腹の底へと投げ込んだのだよって。
ぼくは…、ぼくは…!
ぼくは口を開けて みんなにみせたい!


自由詩 ぼく Copyright 為平 澪 2020-03-23 21:00:47縦
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