とおい記憶
草野大悟2

 ここにくるようになって、もう何年がすぎただろう。何年? いいや、何万年、何億年という時がたっているのかもしれない。ふかい眠りからさめたときには、すでにここにいた。それはたしかだ、とおもうし、だれもがそう口をそろえる。そういえば、このあたりの景色をずっといぜんにみたような気もする。
 移り変わる季節ごとの風景もしっている…たぶん。

 ………春は…、そうだ。あたり一面に広がる田んぼに水が張られ、稲が植えられる。田植えだ。田植機が忙しく田んぼを往復して、ぽやぽやとした苗を植え付けていく。
 いい天気でよかったですね。ああ、ほんとうに。といった会話や、その時の風の匂いさえおもいだすことができる。
 ………初夏。用水路のあちこちで、うす水色のちいさな淡い光たちが舞いはじめる。眺めていると、そのままどこかへ引きずり込まれそうになる。うちわを右手に持ち、左手にお気に入りの缶ビール。
 いい宵ですね。そうですね。ほーんと、蛍きれいですねえ。ええきれいですね。
 永遠に眺めつづけて、引きずり込まれるのもいい、と覚悟を決める。車のとおりも途絶え、蛍の羽音だけがきこえる…。きこえる? 蛍の羽音が? 
 耳がほんとうに知覚した音なのか? あの夜の、ズブリとした肉の感触ではないのか? わからない。なんにも。わからない。
 肉の感触が、嗅覚をまとい、赤へと導く。導かれるままに長い時を浮遊すると、遠くに赤い池のようなものが浮かんでいる空間にたどりつく。
 池の真ん中に、俯せになった女がいる。尻が異様なほど白い。その尻の右半分が突然、グズリ、とくぐもった音をたてながら崩れてゆく。
 見える。真っ白く輝く骨盤が。鼻をつく腐臭が心地よい。心地よすぎておもわず左側の尻を咬む。腐臭が体の中に入ってきて射精しそうになる……

「そろそろ行きましょうか、あなた。私たちの秋へ」
「そうだな。そろそろ行こうか」
 おもいだした。秋を、解きほぐしてはいなかった。
 そうだ。解きほぐさなければ、永遠にこの場所にとどまったままだ。
 行かなければ…。
 歩いてわずか三分の川沿いに秋は横たわっていた。黄金色の実りを惜しげもなく晒し、大きく股を開いて。股間からは、干し草の匂いが流れていた。
 思わず顔を背けた。あられもないそんな姿態など望みはしなかった。慎ましやかで、奥ゆかしい実態であってほしい、いつもそう願っていた。
 気持ちを熟知しているくせに、秋は得意気に股を広げ、広々とした大地を振りまきながら、挑発的な視線で刺す。人に、絶対に見せたくはない秘所を、しかも、面前で晒すことなど、到底受け入れることはできない。絶対に…できない。
 すぐに決めた。首を絞めよう。
 カタカタカタカタ。笑える悲鳴をあげながら秋は死んでいった。もう二度と会うこともないだろう。そう思うと身も心も軽くなった。
 でも、冬がいるわよ。
 秋が言った最期の一言が渦巻いてはいたが、晴々とした気分に包まれていた。

 ………冬。あたりは、静寂という名の暴力に支配される。その凶暴さは、嫌いではない。いや、むしろ好んでさえいる。それでは、なぜ、冬を消そうとするのか? 答はおれの中にある。
 深淵に潜む凶暴さと冬の暴力とが共鳴して、制御不能な世界を創出してしまうからだ。
 そうだ、やるのだ。これまで何度もやってきたように、殺せ。奴を殺せ。ナイフやロープや斧や毒などではなく、あの、とおい記憶で。

  季節があわただしくすぎていく。いま、どこにいるのだろう。さっぱりわからない。わからないから歩いている。ながいあいだ歩いているようなきもするし、ついさっき歩きはじめたようなきもする。たしかなことがひとつだけある。風だ。体と心とをふきぬける風だけが実感される。どこからか、それでいい、という声がする。その声は、聴覚などではなく、存在の奥底でまどろんでいる、[おれそのもの]を震わせる。
 ………それにしても、今日はなんという日だ。逝きそびれた蛍がひとり、ふりしきる風花のなかを、緋色にけぶりながら、天へと昇っていく…………


自由詩 とおい記憶 Copyright 草野大悟2 2020-02-07 09:42:30
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