小中学生と詩人のための共同幻想論入門2
一輪車

2 好きなのになぜ逃げる? 禁制論1 

京都の中学を出てから紆余曲折をへて東京へ出たのが17歳のころです。
縁あって京王デパート最上階にあった京風割烹料理店の調理場の下働きとして雇われました。
お店のマネージャーはもと和服モデルをやっていたという三十代半ばのきれいな方でしたが、わたしが気を惹かれたのは彼女よりも十以上も歳の離れた妹さんのほうでした。二十歳ぐらいの方でしたが、とにかくかわいい顔をしていたのです。

お店があった階の非常扉を開けると通路になっているのですが、その通路に長椅子を置いただけの休憩室があって、ある日、若いウェイトレスたちと話をしていると、ちょうど一人分だけ隙間のあいたわたしの隣に、マネージャーの妹さんがやってきて、なんのちゅうちょもなくすっと腰を下ろしたのです。
互いの腰がくっつくのを感じた瞬間、17歳のわたしはぎゃっとばかりに腰を上げて飛び退いてしまいました。
瞬間、しまったと思いましたがもう遅い。やんちゃな女の子たちから「おかしい」といってさんざんからかわれてしまった。
内心、焦がれるほどの願望の対象であるのに、その子がわたしの横に腰掛けたとたん飛び退いたその理由がわからない。頭が考えるより先に身体のほうが勝手に動いてしまったのですが、少年のわたしにとってこの事件はかなりショックで、なぜこんな反応をしてしまったのか、いつまでもシコリが残りました。
(余談ですが、わたしは結局この妹さんからは嫌われたのですが、なぜか人妻でマネージャーである三十半ばの方と深い関係になって、ガキのくせに逢引などするようになりましたが、これがまた妹さんにバレてわたしはますます嫌われたことを思い出します。きゃは。)

さて、ある人にとって強い執着の対象でありながら、同時に怖れの対象であるという両極性があるなら、このような心の動きを禁制(タブー)という。そういうことをあとで知ったわけですが、知識としては「ふ~ん、そんなものか」という程度でした。それが人間にとってかなり重要な、決定的な意味をもつものであることは最近になってようやくわかってきたんですが、う~ん。
わたしが経験したようなこと──恋い焦がれるがゆえ対象に近づき難いという、まるで正反対の心の動き、このような禁忌もまた個人幻想に属する禁制、対幻想に属する禁制、そして共同幻想に属する禁制というふうに分けて考えることができるようです。

3 きみがスカートをはかないわけ 禁制論2

英国の儀礼用のスカート着用は特別として世の男性がなぜスカートをはかないか? はけないか?
あまりにもあたりまえすぎてだれも疑問にすら思わないようですが、これは禁制の一種、それも共同の幻想に属するタブーのひとつであると考えられます。
ひとりで部屋にいるのなら恥ずかしくもなくスカートがはけますし、恋人同士のあいだならスカートをはいてもおちゃらけですみます。
しかしスカートをはいて外へ出ることには抵抗がある。だからこれは共同幻想のタブーのひとつでしょう。
これが、歩くときはいつも右足から出ないと不安だとかいう「強迫神経症」の場合、これは個人幻想に属するタブーだといえそうです。
それから、近親相姦などのタブーは対幻想に属するタブーになるでしょう。
このように禁忌にも共同性のもの、男女間のもの、個人のものというふうに、人間の意識の在り方と合わせ鏡のように別々に対応するものである、ということがいえるようです。
それにしてもなぜ男はスカートがはけないのかというよりも、どうして女性はスカートなどはくのか、ということが不思議でなりません。
だって冬なんかスースーして寒いでしょうに、それに強い風が吹いたら煽られてパンツ丸見えになるじゃないですか。^^
そういうハンデやリスクをものともせず、なぜパンツ丸見えの可能性のあるスカートをはくのか?
それを説明できた学者はいない。せいぜい歴史的習慣であるとかいう程度でお茶を濁している。
でもね、これをちゃんと説明できなきゃいけませんよ。

4 ネコは自由か? 禁制論3

一昨日、脳科学者の茂木健一郎がyoutubeに動画を投稿しておりました。タイトルが「ぼくがねこのイラストを描く理由」というものです。そのなかで茂木はしきりに「ネコって自由だ。すばらしい」と連発していた。
わたしは、これでも脳科学者かと反発を覚えたのです。ふつうの人がそれをいうのなら黙っていますが、仮にも脳科学者と自称している男が「ネコは自由に行動している」なんて、幼児のように無知な発言を平気でしている。
そこでちょっと批判的なコメントをしました。しましたが、アホにはアホが集まるようで、わたしのコメントにアホな反応があつまったばかりか、茂木先生にそのコメントを削除されてしまいました。^^
どのようなことをコメントしたかというと、「ネコの意識が自由なわけないじゃないじゃないですか」というものです。
「ネコをみている茂木さんの意識が自由を感じているだけで、ネコの意識が自由なわけじゃない」というような内容でした。
もちろん、わたしがいったことは茂木先生には一ミリも理解できなかったようです。^^

ちょっと脳科学について調べてみると、そもそも吉本隆明の心的現象についての考え方は脳科学とは真正面から対立するもののようですね。
吉本の考え方では、心、それは「関係性」という実体のないものである! とするのに対して茂木さんらの脳科学では脳神経の働きとして心的な働きがあるのだと考えられている。
だから脳科学者にしてみれば人間に「自由意志」などそもそもないのであって脳内のニューロンが決定を下したあとでそれが「自分の意志」として意識にのぼるのだという。
わたしにいわせれば脳科学者なんてのはアホとしかいいようがないし、ある意味、カルトのような心的には異常な連中の脳信仰のようなものだということになります。
だって、脳内のニューロンがさまざまな決定を下しているのなら、〈禁制〉という心的現象をどうやって説明できるのか。〈共同幻想〉という心的現象をどうやって説明できるのか。

ネコにも勿論、意識はあります。
それを一枚の鏡に喩えるなら、ネコなどの動物における"意識"とは"一枚の鏡に映った外部世界"です。
①ネコがねずみを見る。するとネコの網膜にねずみの像が光を伝って届く ②それが視神経を通して脳の視覚中枢に伝えられる。すると脳が「あ、ねずみだ」と認識する。これがネコの、ねずみに対する意識化のプロセスです。
その「あ、ねずみだ」という了解を受けてネコの脳は反射的に「捕まえろ」と全身の筋肉組織に命令を下す。
ネコは反省も躊躇もなく即自的に動いている。まるでプログラミングされたロボットのように、あるいは神そのものの分身のように。だから、ネコには「自由」を感受する内省性はないとおもいます。ま、あたりまえの常識として理解できることですが。^^ それとですね、同時に、ネコは"自分の自由意志"で動いているわけじゃないともおもうのです。

しかし人間の場合はそうじゃない。
人間の場合もたしかにネコのようにまずはネズミの像が光を通して網膜に反映される。それを視神経が脳に伝え「あ、ねずみだ」と脳が了解する。ここまではネコと同じです。
しかし、その後、人間意識は、幸か不幸か、その「意識」を「さらに意識する」という操作を必ず経てしまうのです。人間というやつは一枚の鏡に映ったねずみの像をさらにもう一枚の鏡に映してしまう。
もっとひどい場合は、二枚目の鏡のなかの像をさらに別の鏡に映してみてしまう。
二枚の鏡のあいだに立つとわかりますが、自画像が無限につづくようなことが起こり得るわけです。
こうなると意識の連鎖を感じてめまいを覚えることもあります。
一枚の鏡に対象を映すのならそれは、外部世界の直接的反映にすぎません。ですが、(鏡に映った世界はもう外部世界そのものではないのですが)それをさらに鏡に映すということはどういうことか。

吉本隆明は動物や生物など"一枚の鏡しかもたない"外部世界の認識の仕方を「原生的疎外」と名づけ、人間のように、鏡に映った世界をさらに別の鏡に映して世界を了解するような意識の在り方を「純粋疎外」と名づけました。

〈疎外〉という言葉の意味をむつかしく考える人がいるかもしれませんが、それほどむつかしく考えることはないようです。
ネコの場合でも人間の場合でもそうですが、鏡に映った外部世界の像は外部世界そのものではないのです。
また同時に、その像は鏡の属性でもない。いわばその像は外部世界からも鏡からも疎外されて、その中間のところに生じている実体のないものです。そのような認識了解の在り方を「原生的疎外」と名づけたわけです。
ところが人間の場合は「原生的疎外」という単純なかたちですまなくなります。
その実体のない像をさらにもう一枚の鏡に映してしまう。そうすると、その像は実体のないものをもとに、再度、認識と了解という過程をえたものになる。
これを吉本は「純粋疎外」となづけました。
つまりネコがねずみを認識し、了解するとき、ネコは外界に存在するねずみを視ているのに対して、人間がねずみを視ているときには、外部世界に存在するねずみそのものではなく、心の中のねずみ(鏡に映ったネズミ)を視ていることになるわけです。
あらゆる神経症、たとえばタブーのような理解不可能な神経症的現象が人間に生じるのは、人間がこのように自然の対象を心のなかで再度加工して実像を歪めてしまうからだと考えられる。
しかし悪いことばかりではなく人間が共同幻想(国家や宗教、法など)を生み出したのは、人間のこの心の歪みに原因があるとも考えられますし、自然界には存在しない「自由」「希望」「愛」「正義」などというような観念が生まれたのもそれゆえであるのでしょう。
自由も希望も愛も正義も国家も宗教も決してあらかじめ自然に存在しているものじゃないのですが、なにか、そういうものが存在するような錯覚が人間を不幸にしている部分もあるとはおもいますが。

さて吉本隆明の『共同幻想論』という書は、最初に、禁制(タブー)についての言及からはじまるのですが、
この問題について語る前に、『共同幻想論』という書物がどういう体裁のものであるか、かんたんに説明しておきたいとおもいます。

前回、人間の意識には3つの部屋があって、わたしたちは他者との関係の水準に応じて自動的にその部屋を行き来しているのだと書きました。
個人でいるときの人の意識は「個人幻想」の領域で働き、恋人や妻や友人などと一対一の関係においては「対幻想」として働き、宗教集団や政治集団、勤務している会社などの共同体に所属するときは共同幻想として意識されている、つまり人間の意識=こころは三次元であるとそう書きました。

しかし、ここでひとつ疑問が生じます。
じゃあ大昔から人の意識はそんなふうに分業制だったのか? 
10万年前や5千年前から人の心はそんなふうに分別されていたのか? 
そういう疑問がわきますが、当然、そんなことはないわけです。
そもそも10万年前の未開社会に〈国家〉などなかったし前古代に〈共同体〉といえるものがあったかどうか疑わしい。
人間の心や意識にも進化の段階というものがあったでしょう。
10万年前の人間の心の状態は今と違って未分化であっただろうと考えられます。
共同幻想も対幻想も個人幻想もまだ分岐してなくて一つのものであった。
5千年前の人間の心の在り方もまた今とも違うし10万年前とも違うと考えられます。
しかし二千年ほど前の人間の心の在り方はほぼ現代人の心の在り方に近似していたのではないかと考えられます。
どうしてそんなことがわかるのだ。古代未開の人間の心がおまえにわかるのか? 証拠を出せという人がいるでしょう。
さてどうするか。
吉本隆明はそれを古代の文書とか資料などに残る「ことば」の「表現」を通して解明しようとしたわけです。
たとえばわたしたちが今ふつうに使っていることば「速い」だの「長い」だの「近い」だのという当たり前のことば、これ、人類に言語が誕生したと考えられている10万年前からあったのかというと、そんなことはないんです。
「速い」とか「長い」とか「近い」とかいうことばは、わたしたちにとってはあたりまえかもしれませんが、ものすごく高度に抽象化されたことばであって、10万年前は当然なかっただろうし、おそらく5千年前にも存在してなかったでしょう。
古代の人たちからすれば現代の空に人工衛星が浮かんでいるのをみるほどに、ありえない、想像を絶する抽象化をへたことばなのです。
ことば(とくに「表現」)のなかに残されたものを足がかりにして古代社会と現代社会の時間的な溝を埋めようとしているわけです。

*余談になりますが、最先端の言語学者であるチョムスキーは"約10万年前に言語機能(心―脳の構成要素)が瞬間的に完全もしくはほぼ完全な形で出現するような進化の一度きりの突然変異が霊長類の一個体に起こった”と主張しています。(wikipedia)
常識で考えてもそんなことはありえないわけです。
ことばは、人間のこころの分化の度合いに比例して変化していったと考えられます。「瞬間的」に突然、「完全」な「心─脳の構成要素」であることばが生れたなんてのは新興宗教のカルトのようなはなしであって、こういう理論を大学で学んでいる学者や批評家が吉本隆明の文学理論を理解できないのは無理もないとおもいます。また、現代社会の複雑な現象をちっとも解明できないのも無理からぬはなしです。

『共同幻想論』は大昔には未分化で、一枚岩のように単一であった人間のこころに、共同の幻想(国家や宗教や習俗などを生み出す観念)が生じる過程を、未開社会から古代まで順を追って、説明しようとしているのですが、吉本はそれを3つの時代区分に分けて語っています。
宇田亮一という方が精魂込めて書き記した乾坤一擲の書『共同幻想論の読み方』によればそれは次のようになっています。

1.原始未開社会 10万年前~6000年前まで
(幻想が未分化な状態~分化をはじめるまで)
 憑人論、巫覡論、巫女論

2.前古代社会  6000年前~3000年前まで
(分化しはじめた幻想が分解をはじめるまで)
 祭儀論、母性論、対幻想論

3.古代社会   3000年前~1300年前まで
(幻想のなかでも特に共同幻想が分化と分解をはじめるまで)
 罪責論、規範論、起源論

『共同幻想論』はこのような体裁になっているのですが、ただひとつ、冒頭に独立した章のように「禁制論」が来ます。
これがどうにも唐突に感じられるのですが、
これは時代区分を飛び越えて、人間にとって普遍的な大きな問題であることを示しているからではないかとおもえるのです。
タブーというのは逆にいえば「呪縛」です。
そして人間の人生というのはつまるところ「呪縛」にはじまり「呪縛」に終わるといっても過言ではないのです。
次回も、引き続き、タブー=「呪縛」という問題を掘り下げていきたいとおもいます。もうこれをやりはじめると無限に裾野が広がっていくような感じを覚えます。

*ただし、そのまえにゴーンとかいう化け物みたいな暗黒犯罪ゼニゲバ男の犯した犯罪と、それを救けた安倍政権以下、日本の司法、財界、政治家の腐敗を告発する文章を近々、投稿したいと思いますので、そのあとということになりますかね。^^
(つづく)










散文(批評随筆小説等) 小中学生と詩人のための共同幻想論入門2 Copyright 一輪車 2020-01-17 17:35:13
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