小中学生と詩人のための共同幻想論入門
一輪車

※ googleの音声変換を利用して口述自動筆記したメモを元にしておりますので、語り口調になっておりますがご容赦ください。

例えば、
残虐非道な暴力組織を想像してください。
まあアメリカのマフィアでも何でもいいんですけどそういう組織に属している、その、まあ、人殺しも平気だっていう男がここにいるとします。
現実にそんなやつにお目にかかったのは一、二度しかありませんが、^^
ハリウッド映画ではそういう人物がしょっちゅう出てくる。対立する組織の組員を皆殺しにしたり、言うことをきかない庶民をリンチにかけてみたり、ときには権力者の依頼を受けて何の罪もない人を消したりする。コンクリート詰めなんてお茶の子さいさいです。

でもですね、この男が家に帰れば、──人を殺してね、誘拐してコンクリート詰めにして そしてその血だらけになってですね そういう その 残虐なことをしてきたのに、家に帰ると子供をものすごく大切にする優しい父親であったりするわけですよ。
女房には頭が上がらなくてですね、近所ではおしどり夫婦だとか称賛されていたりする。

それからですね、自分の書斎に入ってですね、戸を閉め切って、そのう、独りになったとします。するとまた、まったく別の人間になるわけです。漫画を読んだりテレビを観たりするわけですね。漫画でもいいし小説でもいいんですけど、あるいはDVDでもいいですけど。
そうするとですね、ドラマをみていると、なんの罪もない家庭の主婦とか子供とかが殺されるようなシーンが出くるわけです。で、真剣に憤るわけですよ。この、人殺しの男がです。
自分がですよ、マフィアの一員としてそういう人殺しを平気でしてきたくせにですね、それを棚に上げてですね、「けしからん!」と、テレビ画面上の血も涙もない悪いやつに本気で怒るわけですよ。あるいはヒーローがあらわれて、悪人に鉄槌を下すと「よっしゃー」と感動するわけです。

これって何だろうかっていうことです。

近代以降、現代もそうですが西欧心理学や精神医学は人間の心を一枚岩のように扱ってきました。一人の人間の一つの脳みそに生起する心的現象はひとつの心がつくりだしたものである、と。
そのように考えて大学などでもその線にそって教えているわけです。
しかしそれだと上記のような人間の心の在り方を説明することはできない。
光市母子殺人事件の犯人のように、主婦を殺害して屍姦し、乳児を叩き殺すという残虐非道なことをしておきながら犯行後、テレビをみてアニメのなかの悪いやつらを罵倒する。こういう心の動きを説明できない。あるいは東大を出て、優秀な成績で財務省に入って次官にまでなった男が場末のバーでママが一人なのをいいことに性器を露出して興奮するとか、文部省の次官が出会い系バーに通って貧困女性の訴えを聞いて妙に心気コーフンするとか、どうにも現代の精神医学では解決のしようのない心の動きがある。

そのう、人間の心にはですね、やっぱりその
①社会集団に所属している時の心の在り方と
それから
②家庭で子供や妻と接してる時の態度と
それから
③部屋にこもってですね自分一人になってる時の心の状態、
これは別々なんだということがあるわけです。
つまりその、一人の人間の心の中には三つの部屋があって、それぞれ全く別の働きをしていると、そういうふうに考えないと、もう、どうにもならんよという心的現象が露出してきているわけです。
現在、西洋の精神医学は人間のこころをなんか岩石のようにひとつのかたまりのように考えているわけですがそうじゃない。
全く別個の心の領域が独立して、合わさってできているわけです。
そいうふうに考えないと理解できないことが山ほどあるし、また、そういう考え方でないと精神的な、そのつまり心の病いを患った人たちを救えないということがあるわけです。

ところがですね近現代の西欧心理学にはこういう考え方がないわけですよ。近現代の西欧心理学ではですね、
いまだにそのう、人間の心ってのは一つで、心の中に別個の働き方をする3つの部屋があるなどとは考えてないんです。人間の心はひとつだという考え方であらゆる人間の行動を説明できるし、治療もできると、そういうふうに考えられてるわけなんです。
そういう考え方が現在主流であるから、人間の不可解な意識の在り方がうまく説明できない。分析できないという問題があるわけです。
断っておきますが、いま、語ろうとしていることは「多重人格」の話じゃないですよ。^^
「多重人格」とは別個のはなしです。

さて、この問題に生涯をかけて挑んだのが吉本隆明であり、それが『共同幻想論』『心的現象論』『言語にとって美とはなにか』という三部作に結実しているのです。

えーとですね吉本は人間の心のあり方つまりまあその心的現象ですねその現象(観念の領域)を「幻想」と名付けたわけですがその幻想の領域は三つほどあるのじゃないかと、そういうふうに考えたわけです。それで、まずは人間がですね、社会や会社やそれからまあその同好会ですね、宗教団体でもいいですが、そういうその共同の場にいる場合の意識の在り方、それを「共同幻想」という風に名付けたわけです。それから人間がですね家庭にいる場合あるいは恋人と2人きりでいる場合、そういうですね「一対一の関係」にある場合の心の在り方を「対幻想」という風に名付けたわけです。それから人間が一人でいる時、一人でいる時の心の状態を「個人幻想」という風に名付けたわけです

先程のマフィアの殺し屋の例でいえば、
①組織の命令で人の命を平気で奪う心の状態=共同幻想
②妻や恋人といるときの状態=対幻想
③じぶん独りでいるときの心の状態=個人幻想
こういうふうに分けられると考えたわけです。

①の「組織の命令で人の命を平気で奪う心の状態」を、「なんて残酷な冷酷非道の人間だろう」と思うかも知れませんが、じつはこれは日常、あたりまえに行われていることでもあるわけです。
国軍に所属する兵士という存在は国家の命令があれば敵国の人間を殺して平然としているわけですから。
機関銃でバラバラバラと撃ち殺しても、任務が終われば家庭に戻って子どもたちや妻とにこやかに団らんする。
命令の出元がヤクザ組織であるか国家であるかの違いにすぎません。人間はだれでも共同の幻想のもとでは、鬼畜のようになれますし、人の命など屁とも思わない状態になるわけです。
*たとえば世界的に有名な映画監督の小津安二郎は支那(中国)に従軍した日記のなかで中国兵を撃ち殺しても撃ち殺しても雲霞のごとくわいてくると書いています。面倒くさい、困ったものだというのです。
そこには芸術家、表現者としての一片の後悔も懸念もないのです。そして戦争が終わってすぐに『東京物語』などという名作を平然と撮っている。この心の動きですね。どうやって説明できます?
これから述べようとする共同幻想の理屈でしか解き明かせないものです。この心の動き、これを解明できなければ批評など成り立たないでしょ。

次に②の対幻想ですが、
この状態の対のカップルは、逆に共同幻想を「屁とも思わない」わけです。
想像してみてください。恋愛中のカップルは平気で親を捨て、家族を捨て、会社を捨て、掟をやぶり、駆け落ちします。対幻想のなかにあるカップルはときには殺人指名手配中の相手である恋人を警察からかくまったりします。
*実話にもとづいた映画『薄化粧』(監督‎: ‎五社英雄)はこの問題を扱っています。

対の幻想の中にある一対の〈男・女〉は妻や夫との関係(婚姻関係という共同幻想)を踏み破りもします。
このように、①の共同幻想と②③の対幻想、個人幻想との関係はどうなっているかというと、互いに壁に隔てられているわけです。まったく別個の意識の働きであるとはいうものの、共同幻想と対幻想・個人幻想の関係は対立する関係(逆立)にあるとみなせます。

③の、じぶん独りでいるときの心の状態=個人幻想についてはいうまでもないでしょう。
小説や詩、絵画などを一人で行うときの創作活動の心の動きがこれにあたります。

今回のまとめを再掲すると、

1.人間の心はひとつではなく、壁で隔てられた3つの部屋をもっている。
2.その部屋は意識の対象が共同体である場合に機能する①共同幻想と
対象が恋人などの一対男女の関係の場合に機能する②対幻想(家庭のなかでの関係も含む)と、
対象が自分自身の場合に機能する③個人幻想がある。

3.共同幻想と個人幻想・対幻想は互いに逆立する。(背きあう)

というふうにいえるかとおもいます。
なぜこんなふうに人間のこころを理解しないければまずいかというと、そうでなければ科学的に人の心の病いを扱うことができないからです。
いまの精神分析学や臨床心理学では人の心を本質的にとらえることが不可能だからです。

たとえば「ひきこもり」という病態に共同幻想論をあてはめてみましょう。
「ひきこもり」は社会問題化しているので社会への不適応が原因と考えられがちですが、そうではなく、じつは家庭の問題です。つまり、
共同幻想からくる病態ではなく、対幻想からくる病態です。
対幻想からくる病態とは、【大事な他者との一対一の関係がうまくいかない】ということです。
吉本隆明の「共同幻想論」の理論を「ひきこもり」に応用する手っ取り早い方法としては「対幻想」の環境を取り去ることです。それによってこの病気は100%治ります。
具体的にいうならば赤の他人を同居者として家に置くのです。

家の中に他人を引き入れることによって「ひきこもり」はウソのように解決します。
むかしは「下宿」というものがありましたが、そういう人たちを置いてもいいし、第三者に頼んで住んでもらってもいい。
個別のケースによって違いはあるでしょうが、たいていは、これでウソのように「ひきこもり」はなくなります。

なぜかというと、他人を引き入れることによって対幻想の場である家庭が、とつぜん共同幻想の場に変わるからです。そのことで当然、対幻想は霧散してしまいます。
じっさいにこの方法は実験的に行われ、成功しています。わたしもボランティアで心理的なアシストをしていた対象者をこれで「ひきこもり」から解放することに成功したことがあります。
とはいうものの、「引き込もり」の病態を持つ人の症状が一つの原因から成り立っているとは限らないし、実際には複合的なものですから、
それほどことはかんたんなものではなく予後の対応は必要です。つまり「大切な他者との関係」が霧散しても「自分自身のとの関係(個人幻想=うつ病など)」「社会との関係(共同幻想=統合失調症など)」からくる病態が治療されたわけではないからです。

現代の精神医学は人の心をこのように類別することができないで、ひとつに扱う。ゆえに、これらをごっちゃにする。だからなにをやってもトンチンカンなことになります。何一つ世の中の事象を正確に読み取り、説明することができない。
それは医者でもそうですし、評論家や批評家もそうです。共同幻想と個人幻想をミソクソのようにごっちゃにして語っているから、なにひとつ事態が明らかにならない。

最近の社会現象のひとつにこれをあてはめてみましょう。
愛知トリエンナーレ展騒動というのがありましたね。
愛知県で開かれた芸術表現展覧会ですが、そこで昭和天皇の写真をバーナーで燃やして踏みつけるという映像が流された。あるいは太平洋戦争で特攻した少年兵をバカと罵る表現があった。これに怒った人たちが抗議したというものです。
主催者側の言い分としては、これは「芸術表現」だからだれもこれを検閲したり抑圧することはできないというものでした。憲法が定めた表現の自由に反すると。
共同幻想論の理論からこの問題に光をあてるとするならば、表現行為は個人幻想に属するものですから無限に自由です。だって、だれが「やめろ」といっても個人の脳みそのなかを取り締まるわけにはいかない。^^
人はだれだって無限に自由に表現ができる。たとえ大王だろうと天皇だろうと総理大臣だろうと検事総長だろうと個人幻想にフタをすることはできない。
表現は自由です。
しかしですね、「展覧会」という行事とはなにかというとこれは個人幻想と共同幻想が出会う一種の儀式、あるいは2つの幻想の戦いの場なんです。
つまり詩という個人幻想を現代詩フォーラムという共同幻想が支配する投稿掲示板に投稿すること、それが「展覧会」と同じ共同幻想への参加ということになるわけです。
ぶっちゃけていうと、「展覧会場」とは
そこで個人幻想が共同幻想と出会うところです。
無限に自由な個人幻想が、共同幻想というたたき台の前で社会性を試される場なんです。
表現の自由もくそもないんです。^^ 広く大衆の好みや思想によって値踏みされて、ダメなものは当然、排斥されます。排斥されたり否定されたから「表現の自由への弾圧だ」なんていってるようなのはアホです。芸術などする資格もないし、人間としてもクソです。

これが共同幻想論という理論から導き出される視線です。
ていうか、愛知トリエンナーレ騒動のようなものは共同幻想うんぬん以前、あんなものが芸術表現の問題でもなんでもないことは中学生でもわかる常識でしょうね。

以上、心とは何かという核心に入る前の、序章として申し上げました。次からはいよいよ心的現象の本質「原生的疎外」と「純粋疎外」について語っていきますが、なに、一見、言葉使いが難解そうなだけで、中身は小学生でも理解できるカンタンな常識を表しているだけですのでご安心を。^^

(つづく)


散文(批評随筆小説等) 小中学生と詩人のための共同幻想論入門 Copyright 一輪車 2020-01-14 09:48:16
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