SAD BAR
HAL

まだ6時前だが
ぼくはカウンターのいちばん手前の椅子を引く

マスターが早かったね と言いながら
ぼくのアーリー・タイムスのボトルを出してくれ
磨かれたオン・ザ・ロック用のグラスがひとつカウンターに置かれる

ぼくはマスターが氷を砕く音を聴きながら
ストレート・ノー・チェイサーと言い
チェイサーの代わりにオレンジ・ジュースにしていたのは
誰だっけと考えセロニアス・モンクだったと気がつく

でもいまラークに火を点け深々と吸い込むながら
耳は適度な音量で流れている
ジム・ホールのアランフェス協奏曲を聴いている

その透み切ったテクニックを抑えた弦を滑る音は
どこか遠くの沢の奥深くの
小さな清流を想い起こさせる
岩魚が泳いでいるのさえ見える

そんな幻覚を見ている内に
ぼくの前には素っ気のないボトルと
コースターの上に露をかいたオン・ザ・ロックが置かれている

ボトルを見ると丁度指一本分減っている
24杯飲めばニューボトルが何も云わず卸される
グラスを取りいつものざらつく安物の味が喉を通る

でも氷代をこの店は取らない
チェイサーは大層なデキャンタに入れた水道水だ
お通しだけなら300円でしかもツケで帰れる

マスターは入ってきた顔色ひとつで
話しかけていいかいけないかを一瞬で見抜く
プロの眼だ 多くの人間の裏を見てきたプロの眼だ
その眼は一見の客には特に厳しく向けられる

一瞥で嫌な客にはうちは会員制なのでと
北新地の高級クラブでしか遣わない理由を
いけしゃあしゃあと大きく威圧的な声で言う

オーディションを通らなかった一見は
扉を少し不機嫌な力で締める

ターンテーブルに乗っているLPは
トニー・ベネット・シングス・バーリンに替わっている
還暦を越えたばかりの録音のはずだけど
歌いすぎない男でしか歌えないシミとシワを感じる
測り知れない辛酸を隠した男ならではの稀な歌声が流れる

いつしか馴染みの客がふえている
ぼくはそれぞれの客にグラスを掲げ挨拶をする

その馴染みの客のなかにあいつの顔は見えない
あれほど酒の好きだった男の顔は見えない

ぼくはそれで満足だろうと
ラークにまた火を点け心底想う
いつかバータンダーが
死神に変わることを知っていたはずだから

ぼくがいま吸っている煙の向うに
死神が笑んでいるのを知っているように

ぼくは椅子を引き立ち上がり
馴染みの客に別れの会釈をする

じゃあ とぼくはマスターに眼で挨拶をする
奴はアルコールを飲んだんじゃない
アルコールに飲まれたんだ 奴は敗れたんだ
他の客に聞こえない微かなマスターの声を聞く

シングス・バーリンのエンディング曲である
この季節らしいホワイト・クリスマスに送られながら
ぼくは暖かい巣から飛び立つ鳥のような気分で扉を開ける

外は寒風に吹かれ
素っ気のない今年初めての粉雪がそれぞれに
行き場を失ったかのように風まかせに吹き荒ぶ

お前は寒かったんだろうね
此の世界も此の国も此の長い付き合いだったぼくですら
お前を温めるものではなかったんだろうね

他人の破滅にも苦いものがあるんだなと
ぼくは黒い背広の襟を立て
誰も待ってはいない部屋に帰ろうと急ぐ

どれだけ心の扉を閉めても
どこからか隙間風が入ってくるんだなと感じつつ 

お前は信じなかったかも知れないが
お前には伝え損ねたかも知れないが

お前は独りじゃなかったんだ
お前は独りじゃなかったんだ

手遅れの言葉を心の中で呟きながら
待つもののいない家路へ向うためのタクシーを拾おうと手を挙げる 


自由詩 SAD BAR Copyright HAL 2019-12-22 10:04:41
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