比喩はままならぬ
アラガイs


 それは問いかけを装いながら自問に置き換える。僕が書いた「失地」。これは「比喩」でも用いられていなければなんてことはない、ただ忘却を惜しむだけの独白でしょう。
先ずは文章のメリハリや語り口の展開を中心にして言葉を飾り、読み手を意識しながら振りをつけて発語に置き換える。比喩を取り去れば単純でありふれた中身なのです。
しかし文学や詩に於ける比喩の役割とは力とは一体なんでしょう。もちろん比喩と置かれてもいない直接的に伝わる優れた詩は多くみられる。そもそも比喩は我々にどのような意義をもたらし、また文芸として使用しなければならないものなのか。稚拙にも一度捉え直してみたくなりました。そこで比喩の役割をひもといて少し探ってみましょう。
例えば現代詩にもっとも多くみられる傾向として、比喩がそれ自体意味を成すのか成さないのかよくわからない、意識しているのか無意識に置かれているのかはっきりと読め取れない類いの詩があります。
一般的にみてわかりやすい比喩として一例を挙げれば「胸に花片の刺青を彫りました。僕はあなたに蒼い薔薇の絵を贈ります。これは二人の誓いが永遠のものであるように。その逞しい背中に揺られては子犬のように睡るのです」拙い例えですが、この文章からちょっと普通ではない二人の関係が読み取れてきますね。それは贈り物をする恋人らしき人物の背中が逞しいと書かれてあること。そして異質な蒼い薔薇。このことから二人はゲイの関係にある。と臆測で読むことができます。このような場合の比喩、つまりこの蒼い薔薇の花片などはまだわかりやすい一例ですが、難儀なのが「空を見上げると真っ赤な太陽の鯨が深く地中の底に潜航した」。こんな風に書かれてしまうとこれだけではちんぷんかんぷん、まったく意味不明で思考は停止されてしまいます。まずこの「真っ赤な太陽の鯨」これをどのように読み解けばいいのかわからない。これは思いつきに促されているだけだろう。いや、まてよ、赤いとは血の色でもあり、食物や植物の色でもあり、動物ならば鳥の混ざり合う色でもある。それが太陽に染まり鯨に導かれる、とは何か。そこでわたしならばとあたまを巡らせてみる。そっと後付けにしても当てはめて考えてみましょう。
赤いとは何かのシンボルマークでもあり、それに太陽の核融合及び分裂。そして地球のほぼ七割を占める海の航路に君臨する最大の哺乳動物でもある鯨。鯨、鯨とはひょっとして潜水艦のことではないのだろうか?という、まったく根拠もない臆測が想像に変わり脳裏をよぎってきます。それは何処かの国家の潜水艦を比喩しているのではないか、とも推察できるのですが、もちろん正解は用意されていない。
このようにイメージに置き換えることができるならばまだマシなほうで、これがどうにもこうにも手には負えない比喩も詩には存在します。
そうして読み手は前後の文章からイメージを拾い上げ自分なりの解釈に置き換えようとあたまに働きかけることになるのです。が、
、そのように至るにも当然確信は持てない。持てないので野暮を承知で問いかけてみることにもなるでしょう。この錯乱したような言葉、これにはどういう意味があるのでしょうか?なんらかのヒントでも与えてもらえばと、作者に問いかけてしまうことになるのです。すると、「これに意味はありません。無意識に置かれてあるのだから~」または「これは比喩ではない、このことにはこれ自体意味があるのです」などと解説されてしまえば、読み手は自分の思い描いたイメージとは異なるその解釈に、茫漠と混乱をきたしお手上げの状態に陥ってしまうのです。
そのような難解な詩をわからないまま意識的によいイメージで捉えてはいないだろうか。わからないがなんとなくクリスタル。よいと思えてしまうのだと。雰囲気が自分好みであるから。書かれて仕様されている言葉たちが拾うのにも難しく難解だからだとか、またはそのわからなさがいいのだとか。どうにもこうにも解釈は尽きない。それほど比喩とは文芸的に混乱を促す魔法の杖なのである。果たしてそれは牧童の杖かそれとも道化師の傘なのか。
しかしながら話しはこれで終わらない。これは滅多にお目にはかかれないことだが、そのように意味不明で難解な言葉に置かれてあっても、偶然にもたまにいいと思えるような詩に巡り会うことがあるのだ。実は妖怪とは知らずにその明眸な姿見に動揺し呆然と立ちつくすような。
曖昧な誘惑。それはどのような見解に促されそう判断することができるのでしょうか。続く~



散文(批評随筆小説等) 比喩はままならぬ Copyright アラガイs 2019-12-18 03:43:41
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