人類の最期に文学が立ちはだかる
一輪車

考えてもみてほしい。
月収13万の男の給与が突然100万になれば生活は一変するだろう。
しかし、100万の給与が、今度は月1億になったからといって、生活はそれほど変わるものでもない。
別荘を買おうが高級車を乗り回そうが自家用飛行機やヨットをもとうが、もう、人間はそれほどよろこびを感じない。

これはわたしの実感だ。
若い頃は極貧も経験したし、30代以降はあまりおカネのことを心配することがない余裕のある時期を経験したこともあった。そこでわかったことはカネなんて、ある程度必要だが、あまりあっても人間はかえって寂しくなるのだなということだった。
どちらかというと人間は少しカネがないほうが生活は彩り豊かであるという考えをもつに至った。

どうしてこんなことをいい出したかと言うと「シンギュラリティ(技術的特異点)」なんてありゃウソだぜ、といいたいからだ。
WIKIにはこう書いてある。
【シンギュラリティ(技術的特異点)とは、人工知能(AI)が発達し、ついに人間の知性を超えることによって起こる私たちの生活上の変化を表した概念です。 もともとは「特異点」のことをいい、物理学や数学の世界で使われる言葉です。】

パソコンが人間の知性を超える? こんなバカなことはありえないと今から断言しておこう。
スパコンの6000兆倍の速度をもつ量子コンピューターが中国で実用化直前に来ているというが、先程のお金の話と同じで、量子コンピューターのさらに1億兆倍の速度のパソコンが現れようと、量的変化だけでは「シンギュラリティ」など生じないとわたしは考える。

科学者たちは量的飛躍だけで質的変化が生じると思っているのだろうか?
たとえば人間の〈知性〉とは何か? と一度でもかれらは考えたことがあるのだろうか?
人間の〈知性〉は質的には胎児期と生後一年の乳児期で決定されるということを精神現象学の世界で仮説されている。
その仮説をふんまえた臨床が精神障害治療に役立っていることから、この仮説はある程度信頼できる。
よって、一歳児以後の知識の増加による言語取得による知性の発達はたんに量的変化でしかないとわたしは考えている。
〈知性〉の根っこにあるものは胎児期と生後一年の幼児期に決定されているのだ。
つまり知性の誕生には〈母〉との関係性が絶対的に必要だといえる。
そして、このことが人々それぞれの〈文学〉の根底にあるものだとわたしは考える。

パソコンという機械が〈知性〉をもつにはその"人間的過程"が絶対的に必要なのだ。
かといってパソコンに母親がいて胎児期があるわけがない。
しかしいずれパソコンはそのことを克服するだろう。そのために機械は〈文学〉的過程を絶対的に必要とする。
〈文学〉とはすなわちわたしたちが母との関係性の上に成り立たせた胎児期と幼児期の根源的な知性の核そのものであるからだ。

人類がどれほど進化をとげようと、どれほど量子パソコンが普及しようと、そうなればなるほど〈文学〉が傲然とその前にそびえ立ちはだかり「おれを超えられるか」と問うことになるだろう。
いまもすでに文学は衰退しているが、その時代にはすでに文学はほぼ絶滅の危機に面しているはずだが、そのときはじめて人類は文学の壮大な壁を見上げることになるだろうとわたしはいまから予言しておく。








散文(批評随筆小説等) 人類の最期に文学が立ちはだかる Copyright 一輪車 2019-12-06 18:31:13
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