秋霧の朝に
帆場蔵人

課題詩『秋の霧』対応随筆

夜勤明けの朝には霧が深く立ち込めていることが、しばしばある。僕の住む地域は盆地であり、すり鉢の底に水が溜まるように霧も溜まり濃い霧の中に町は沈む。視界も悪くなるので、自然、自動車も心持ち速度を抑えて緩々と走っていくことになる。この霧なら今日は晴天になるだろう。通学児童の色取り取りのランドセルを横目に、秋の霧が出る日には晴天になる、と教えてくれた人を思い起こしていた。

僕は臆病な少年であった。夜のトイレ(昔、田舎の便所は屋外にあった)など年長の兄を夜中に起こしては不平を言われたものだ。ある朝にサッカーの早朝練習に行こうとして立ち込める霧を前に、玄関先で立ち尽くしていた。兄はさっさと僕を置いて友だちと行ってしまった。人通りも車の通りも少なく皆んな霧の中に吸い込まれて消えてしまうような不安に足が竦む。坂を登ってしまえばグラウンドまで川沿いを五分もかからないというのに。練習をサボったら父はもう月謝を払ってくれないだろうし、もし大丈夫だとしてもチームメイト達に臆病な自分を笑われるのは七歳の少年には辛いものだった。そうしてしばらく、ぼんやりしていると誰かが坂を下りてくるのが見えた。ハゲ頭に帽子を被り眼はぎょろり、と突き出ている。虎じい、だ。年寄りだが背中はちっとも曲がっていない。虎じいは杖で霧を払うように歩いてくる。そして僕に気づくと、なんやボン、かと厳つい顔に笑みを浮かべてほれ、飴や、と懐から差し出してきた。僕がなかなか、受け取ろうとしないのをみると、オヤジさんには内緒やで、と一層、顔の皺を深くして笑うのだ。

虎じいとの出会いについて書いておこう。当時、小学校で敬老の日に市内のお年寄りに向けて手紙を書いて送る、という行事があった。特定の人物にではなく誰に届くかわからないお手紙、だった。僕はやっつけ仕事で長生きしてください、とかなんとか書いたのだ。数日後、返信が届いた。とても嬉しかった、もう少し生きて見ようと思います、と子どもにもわかる丁寧な文面でお礼が綴られていた。良ければ遊びに来てください、とも書かれていた。僕は折を見て虎じいの家に遊びに行った。会ってみると文章から想像したような穏やかな風貌ではなかったが、とても良く笑う人だった。虎じいは若い頃、日本中を旅したそうでその話はとても面白かった。飛騨高山で天狗に会った話や兵隊をしていた頃に支那で一つ目小僧に化かされただの、子どもを楽しませるためのよもやま話だったのか、本当の話だったのかはわからないが虎じいは子ども相手に同じ目線で話してくれる愉快な人だった。しかしある時、父にその話をすると不機嫌な顔をしてもう行くな、という。理由を聞けば、うるさい、と怒鳴りつけられた。怒り出すと平手どころか、何が飛んで来るかわからない父だから僕はその日から次第に虎じいの家に足を向けなくなった。祖母が、筋もんやったからなぁ、と呟いたがその意味は幼い頃の僕にはわからなかった。

そんなわけで恐る恐る飴を受け取ると虎じいは、久しぶりやなぁ、とゴツゴツした手で頭を撫でてくる。何をしてるのか、と聞かれたので川沿いのグラウンドまで行きたい、というと、なんや兄貴に置いてかれたんか、と僕の手を引いて歩き出した。歩きながら、もごもごと謝ると虎じいは笑って話し出した。

「ボン、知っとるか。この霧いうんは雲と同じもんなんやで。わしは昔、飛行機に乗ってたんや。雲はな綿菓子みたいに見えるやろ。せやけど、違うんや。あれはミルクのなかを泳いでるみたいなんや。そんで雲の上に出たらそらぁ、お天道さんが近くに見えてなぁ……」

虎じいの話の間、僕らは雲の中を歩き続けた。誰かとすれ違ったようにも思ったけれど、よく覚えていない。霧への漠然とした不安を忘れて富士山の頭上を飛行機で飛び越え雲の海を見降ろしたらでっかいナマズが雲の中から顔を出した、という虎じいの話に夢中になり笑っていた。やがてグラウンドが霧の中でも見えて来ると、虎じいはもう一人でもいけるやろ、と僕の背中を押した。別れぎわに、秋の朝に霧が出たら昼にはよう晴れるんやで、と虎じいは笑いながら土手に降りていったのだった。朝練の後、学校の授業が始まる頃には霧とともに雲も去り、晴天には青がいっぱいだった。虎じい、とあったのはそれが最後だった。サッカーや柔道に夢中になるうちに僕の生活から虎じいは遠ざかり、一年ほどして虎じいの自宅前を通ると表札がなく家の雨戸は閉められていた。

霧の町をぬけて自宅に辿り着く。夜勤で疲れた身体をソファに埋めて、カーテンを閉め切った部屋で眠った。遠い国まで流れていく雲の中、でっかいナマズが泳いでいく。その背には虎じいが杖を振り上げ笑いながら乗っている、夢など見ることはなかった。数時間後、目を覚ました僕は水を飲み渇きを癒して、カーテンをさっ、と開けた。秋の朝に霧が出たら昼にはよう晴れるから。当たり前のように秋のひかりが射しこみ、僕と部屋を濡らしていった。


散文(批評随筆小説等) 秋霧の朝に Copyright 帆場蔵人 2019-12-04 00:58:37
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