自分史(業界誌記者時代4 ー 組合活動)
日比津 開

 専門誌は僕が所属する産業機械分野は発行
部数が最も多く順調だったが、ほかの分野の
3誌は部数が伸び悩んでいた。売上高は社員
が40~50人いるにも関わらず3~4億円(後に
入る音楽事務所は社員約20名で20~30億円
の売上があり、1人当たりの売上が格段に違っ
ていた)ほどで、会社経営は慢性的な自転車
操業だった。そんな中で僕は労働組合の役員
をやることになり、広報を担当することになっ
た。

 一番の組合活動はやはり春闘で、賃上げ交
渉は妥結するまで何回も行った。社長は経営
手腕はなかったが、ジャーナリストとしては
大御所、大先輩で話し合いでは組合執行部の
要求に応じられない理由をいろいろ述べた。

 僕はまだ20代前半で入社歴も浅く、団体交
渉の場に参加しても、最初の内はやりとりを
聞くだけでほとんど発言できなかった。しか
し、広報担当なので組合側の要求と経営側の
回答、団体交渉の模様を文章にまとめ、印刷
して社員に知らせた。

 当時は社会全体でも労働組合の活動が衰え
る前で、組合の役員になってからは上部団体
の集会によく参加し、ほかの会社の仲間と交
流、話し合いの機会を持った。組合のレクリ
エーションではパーティーでの飲食のほかに
野球やボウリング大会が定期的に開催され、
僕は野球ではキャッチャーで4番、委員長が
ピッチャーだった。ボウリング大会では、し
ばしば優勝した(大学時代、一時ボウリング同
好会に所属していた)


散文(批評随筆小説等) 自分史(業界誌記者時代4 ー 組合活動) Copyright 日比津 開 2019-11-19 08:47:44
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