不毛の海図
こたきひろし

 フィクションですから、誤解しないで下さい

彼はすでに仕事社会から引退していた
子供らは成長して親の手を離れ、家を出ていった
築三十年の家には老いた妻と二人だけの暮らしになっていた

彼は毎朝暗いうちに同じコースを散歩するのが日課になっている
その日もいつも通り早起きして家を出た

普段から人通りの少ない細い道
途中にちょっとした空き地があって塵が沢山捨ててある
側には「不法投棄禁ずる」の看板が意味なく立っている
彼はいつもながらそこを通るとき憤慨を覚える
しかしその反面には
それもまた彼の散歩の楽しみに組み込まれてもいたのだ
塵の中に宝物が紛れ込んでないかという興味と刺激を味わえるからだ

その朝は黒いごみ袋が1つ捨ててあった
驚いたことに
そのごみ袋は何やら動いていた
事もあろうか
ごみ袋の中で何匹かの猫が鳴いているのが聞こえてきた

きっと生後間もない子猫に違いない
まだ目も見えない子猫に違いないのだ

人間は自分の都合しだいで幾らでも残酷になれる
自分より弱い存在には特に

彼はにわかに心がざわめき痛みだした
けれど黒いごみ袋の中を確めたりはしなかったのだ
触る事さえしなかった

彼は散歩を優先した「自分は何も悪くない」とひたすら思うようにした「悪いのは子猫を捨てた奴だ」
もし
この場に他人が通りかかったらあらぬ疑いをかけられるかもしれないと逃げるように早足になってしまった

彼が家に帰ると
いつも通り妻が出迎えてくれた
彼の顔色を見て妻が訊いてきた「どうしたの?」
何でもないと、彼は答えた

食卓にはいつも通り朝食が用意されていた
が彼は
直ぐには箸をつけられなかった
浮かない彼の顔にふたたび妻が訊いてきた「どこかぐわいでも悪いの?」
どこも悪くないと彼は答えた

彼は言ってしまおうかと胸の内で葛藤した
しかし
事実を口にしたら妻は何と言うだろうか
「酷い人ね。あなたがそんな人だなんて思わなかったわ」

責められるかもしれなかった
反面、もし
子猫に同情して拾って返ったら
それはそれで怒りを買ってしまうような気がした

結果
彼は何も言わなかった

彼は心の底で
冷酷に捨てられた子猫に対して
「おのが身の運命のなさに泣け」と
松尾芭蕉が旅の途中に出会ってしまった捨て子を
救う事なく
見捨てたというときの
境地に達していた

いつか何処かで
読んだ本を思い起こして

自分の都合のいいように


自由詩 不毛の海図 Copyright こたきひろし 2019-11-17 09:57:22
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