巡り会えない誰とも
こたきひろし

二階建ての一軒の建物が二つに分かれた貸借物件が住宅地のなかにうもれていた。同じ敷地内に平屋の一戸建ての借家が一軒があって、そこは若い夫婦が子供と棲んでいた。もう1つある家が大家さんの家だった。
国道から細い道に入ると間もない場所にその頃私は棲んでいた。
私が一人で借りていたのは棟が二つに分かれた貸借の片側で、もう片方に母親と娘が二人で棲んでいた。
母親は無職の様だった。娘は夕方出掛けて夜中に車で送られて帰ってくる。明らかに水商売か、もしかしたら風俗かも知れなかった。娘が働いて母親を養っているに違いなかった。とは言っても、私の勝手な想像ではあったけれど。
私は国道沿いのバス停からjR線の駅前まで通い、洋風飲食店の厨房で働いていた。仕事は午後の正午から閉店の十一時までだった。その時間までだとバスはなくなり、帰りは店長の車で送られていた。
そんな勤務形態なので、隣の娘が帰る深夜には起きていた。近くで車の止まる音がしてドアの開く音がして「お疲れ様でした」の女の声が聞こえて「お疲れ」の男の声がそれに応える。そしてドアの閉まる音がした。それから足音が近づいてきて私の家の前を通り抜けると隣の家のドアの開けて中に入る。
そこから母親と娘の会話が始まる。
小声だったが壁越しに聞こえてきてしまうのだ。
それは建物の構造に問題があるので、私には何ら落ち度はないのだが、盗み聞きしてるようで後ろめたい気持ちになってしまった。
しかし、反面にはそれを漏らさず聞きたい欲求に駈られてしまう自分が存在していた。
単独生活の男にとってかなり刺激的な環境であた事を否定は出来ない。
私は出来うる限り物音をさせないようにした。眠っている振りをしたのだ。
下手をしたら犯罪者扱いにされはしないかという不安にたえず晒されてもいたのだ。独身の変態男が隣り合わせになって棲んでいる事に相手は警戒心を絶やさないに違いないと私は想像した。それがいっそう私を刺激してしまう一面もあった。

その日、私は週一日の休日だった。休みはほとんど出掛けない。食料を買いに近くのコンビニにかスーパーに行くくらいだった。
夕方隣の娘が出勤して行った。それから間もなく隣のドアが開いた。買い物にでも出掛けるのかと思ったら
私の家のドアのノックしてきたのだ。
私は何事かと怖くなりながら返事をしてドアを開けた。
母親と話すのはその時が初めてだった。
「ご免なさいねお休みの所」
母親は言いながら、最初に私をいちべつしてから私の部屋の中を探るような目で見た。
殺風景な部屋である事は間違いない。独身男の匂いが立ち込めている事も隠せなかった。
私はそれを嗅がれてしまう前に要件を聞こうとした。
「何ですか?」
「いえ、たいした用事はないんですけどね。隣の同士だからご挨拶がてらにお話させていただこうと思ったものですから。大分遅れてはしまいましたけど」
「はい?」
私は思わず怪訝な顔で相手を見てしまった。
そこに立っていたのは中年ながら妙に色艶のある女の人だった。
「最近変な電話が掛かってくるんですよ」
突然女の人が言い出した。
「はい?」
私はふたたび怪訝な顔で相手を見てしまった。
それから聞いた。「どんな電話ですか?」
「若い男の声だと思うんだけど名前も要件も言わないんですよ。ただ、ハアハアと息があらいんですよね」
「いたずら電話ですか?」と私は言った。
「そうです。よくあるイヤらしい電話です」
と女の人は言いながら意味深な目で私の方を窺ってくる。
「それが私とどんな関係があるんでしょうか?」
私は相手の思惑を跳ね返すように聞いた。
「貴方も独身の男の人だから色々あるんじゃないかと思いまして?」
「色々って?もしかして私の事疑ってますか?私はお隣の電話番号知らないです。イタズラ電話かけられませんが」
「ご免なさい。疑ってる訳ではなくて申し訳ないなと感じてしまうんですよ。女二人隣に棲んでしまって、ここよく聞こえてしまうでしょ。聞いているでしょ」「いいえ何も聞いてません」
女の人の言葉にきっぱりと私は言いきった。
すると女の人は「いいじゃないの。聞こえるものは聞いたって、トイレのする音だって聞こえてるでしょ」
と、躊躇いもなく言い放ったのだ。




散文(批評随筆小説等) 巡り会えない誰とも Copyright こたきひろし 2019-10-05 07:08:37
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