或る夜 眺めのいい部屋から
HAL

ふとChagallの“恋人”を観たいと
新幹線のグリーン車に乗り
倉敷の大原美術館へと向かう

じっとその絵の前でChagallならではの
黄緑色をじっと1時間くらい観つづけた後
また新幹線のグリーン車で帰ってくる

でも家には帰りたくないので
中之島のリーガロイヤル・ホテルに電話して
スィートをワンユースでと予約して

新大阪駅の1階にハイヤーを呼び
新御堂筋を市内に向かい逆行きの道は
家路へと急ぐ車で渋滞してるなと煙草を吸う

ホテルの正面に着いたら顔馴染みのドアマンが
黒塗りの鏡のように磨かれたドアを開けてくれ
その僅かな微笑みとこんばんはの挨拶に軽く笑みを返し

真っ直ぐに雲のような柔らかい絨毯を感じながら
スィーツ専用の奥のチェックイン・カウンターに行き
ダイナースカードを差し出して鍵を貰う

そしてそのまま部屋には向かわず
バーナード・リーチがデザインしたリーチバーの
カウンタに座り最初の一杯としてネグロニを頼み

そのビターさが口から消えた後はリーチバーならではの
ウォッカ・ギムレットを飲みスィーツ専用のエレベータに乗り
部屋に入り窓のカーテンを開けいつもの高級娼婦を呼ぶ

彼女が来る前にシャワーを浴びバスローブを着て
暮れてしまった街の散らばる光を眺めながら
たくさんのひとたちはしあわせなんだろうなと想うと

部屋のチャイムが小さく鳴りドアを開けると
かすかな微笑みを浮かべる上品な娼婦を迎え入れる
そしてその娼婦のディオリッシモの香水に包まれ性交をする

彼女は気がついてないだろうが彼女を指名する男が多いのは
彼女が左利きなところだ右利きのフェラチオとは微妙に違う
男がそんな小さな長所を気にいってしまうことを知ってる女は少ない

またピロートークは彼女の愛読書であるHeideggerの『存在と時間』
Heideggerの唯一の失敗はヒトラーとナチズムと関わったことだと言う
でも形而上学を否定しSartreが実存主義に到達したのは彼のお陰とも言う

普通でも『存在と時間』について話しのできる女は数少ないが
SartreはHeideggerに比べただの餓鬼よと言える女はもっと少ない
だから彼女は一流企業の部長クラスの1ヶ月分の報酬を一晩で稼ぐ

帰りどきも分かり客の希望を察知してシャワーを浴び報酬を受け取り帰る
確かに一流娼婦と呼ばれるのは性的なサービスだけではない
高級娼婦の仕事とはを熟知しているプロフェッショナルだといつも想う

彼女が帰った後もう一度シャワーを浴びながら
ある夕暮れにチャイムが鳴り友人がドアを開けると
パリにいるはずの高田賢三氏が『河豚が食べたくなったから帰ってきた』
そんな話をふと想い出す

その友人はすでに予約されている銀座の一流の割烹に
待たせてあったハイヤーに賢三氏と一緒に乗り込む
酒を飲みながら河豚を肴に歓談してたちまち河豚の夕餉は終わり
賢三氏はその割烹にハイヤーを頼み羽田空港へと向かい
来たときと同じエア・フランスのファーストクラスで
仕事の拠点でもあり自宅もあるパリへと舞い戻るという話だ

お金があるとそんなことがいとも簡単にできる
お金がないとできないことがいとも簡単にできる

でもお金ってそんなことをするためにあるんだよなと
またシャワーを浴び新しいバスローブを着て窓際に立ち
夜だけ眺めのいい部屋から光が少なくなった虚勢の街を見下ろす

お金では絶対にできないこともあるんだと想いながら



自由詩 或る夜 眺めのいい部屋から Copyright HAL 2019-09-29 09:41:11
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