MAR November 4 2003
カワグチタケシ

 
 言うまでもなく、言葉は万能ではない。僕たちの言葉による意思伝達は、ほとんど奇跡と呼んでも差し支えないほどの、言葉の周囲をめぐる曖昧な了解のうえに成り立っている。もしかしたら、そんな気がしているだけで、意思伝達なんて、実はまったく成り立っていないのかもしれない。しかも、困ったことに僕は、言葉のそんな側面を偏愛している。
 言葉は事物を指し示す、と思われている。人が何かを発見する。かたちあるもの、かたちなきもの。発見した何ものかに名前を付ける。そして、名前が一人歩きを始める。

 一枚の絵の前に立ち、僕は途方にくれている。僕は、この一枚の平面作品を言語化して伝達しなくてはならない。
 まず、そこにあるものをそのままそこにあるように言葉にすることの困難。大きく描かれているものを大きく、小さく描かれているものを小さく。言葉の量も含めて、そこに描かれたままの正確なバランスで説明したいと思う。そして、それはなかなかうまくいかない。つい細部に入りすぎてしまったり、大きく描かれたものをその大きさゆえに見逃してしまったりする。
 そして、視覚的な了解の欠如を前提とした伝達。色彩を、遠近法を、抽象表現を、どのようにしたら伝えることができるのだろうか。そんな欠如を前にして、いくつかの名前は意味を失ってしまう。
 たとえば「赤」。画家の自画像は、黒をバックに赤いインクで描かれている。僕はその色を、何か手に取って感じられるものに置き換えて説明しようとする。トマトジュースのような濃い赤。あるいは、赤ピーマンのような赤。冬の夕陽のような赤。どれもしっくりおさまらないうえに、そんなにいろいろ言われたら、説明される方も混乱してしまう。だいいち、トマトジュースと赤ピーマンと夕陽は同じ色ではない。そして、人は夕陽に触れることはできない。
 僕が一枚の絵の前に立つとき、その平面作品から受けとる感動の正体を知りたいと思う。すくなくとも、それは絵に関する「説明」ではなかったはず。それなのに、僕には説明することしかできない。しかも相当できそこないの。「~について」ではなく、「~そのもの」を語ることの困難がそこにある。もしかしたら僕たちは今までずっと、「~について」しか話してこなかったのかもしれない。それでなにかすっかり共有した気になっていただけなのかもしれない。それは、情景やマテリアルに感情を代弁させることに似て、かぎりなく空虚なことだ。

 真夏、美術館の裏庭で、僕は一本の孟宗竹に右耳をつけている。竹の空洞で増幅された水音が聴こえる。竹の導管を上る地下水の音だ。僕は目を閉じる。左耳に聴こえていた蝉の声が遠ざかっていく。ごぼごぼと竹に吸い上げられる水の音が近づいてくる。

 


自由詩 MAR November 4 2003 Copyright カワグチタケシ 2019-09-20 00:27:39
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