晦い花園
la_feminite_nue(死に巫女)

 おぼろな夢のような世界の中に、花たちが咲いている。それは花園なのでしょうか。コスモスとか、グラジオラスとか、季節も異なる花たちが、いっしんに一度に咲き誇っている。その中に私はいて、──いいえ、私ではないのでしょうか。私ではなく、私の母親とか、私の恋人とか、私の姉妹とか、そうした者がそこにはいて、花たちを見つめているのでしょうか。コスモスやグラジオラスが、一度に咲く花ではないことを知っています。それらの花たちは、同じ季節に咲く花ではないのです。でも、その花園の中には、コスモスやグラジオラス、ヒヤシンスなどが、まるで等しい世界の中にいるかのように咲いている。そこは重なりあっている世界なのかもしれません。だとしたら、私は──いいえ、その人は、死の中に住んでいるのでしょうか。それとも、生き疲れて死の世界へとさまよいこんでしまったのでしょうか。苦しむことができなくなった時に、人は生きるのを止めるのだとも言われています。だとしたら、その人は死の淵にある人なのでしょう。生と死も、そこでは重なり合っているのでしょう。コスモスは秋に咲く花です。グラジオラスやヒヤシンスは、春や初夏に咲く花たちです。時間のない世界があるとしたら、そこでは、生きていることと生きていないこととは等しいでしょう。その人は、私でもあり、私でもないのかもしれません。「ようやくここに来たね」という言葉が聴こえてきたとしても、私は振り向かないでしょう! 私にはまだ苦しむ力があると思った時、夢のようなおぼろな世界は消えていきます。そうして取り残されるのは、現実に生きている私、苦しんで、苦しむことを拒んでいる私なのです。何もかもが矛盾しない世界、何もかもが矛盾していることが矛盾しない世界というのがあり、花園を包み込んでいるのです。それもまたより大きな世界の中の一つであり、私たちには考えることのできない、受容と衝突が同時に行われている。そして、花園の中に投射された一個の影絵として、私たちは一枝の葉を見ているにすぎないのです。ようやく立ち上がって歩き出すその人が、手をふりながらこちらを見つめました。かつて私であった私が、死者となってこの花園の中にいて、一人歩き去っていくのです。淋しいとも悲しいとも感じない私は、生きているのでしょうか。これが生きるということなのでしょうか。コスモスやグラジオラス、ヒヤシンスは、何の影なのでしょう、憐憫と愛情に満ちて咲いています。この花園の中に道はありますか? 道がなければ、花たちの間をかきわけて進んで行きましょう。その人は、歩いていくでしょう……


自由詩 晦い花園 Copyright la_feminite_nue(死に巫女) 2019-09-10 14:43:08
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