スケート場にて
コタロー

 ある寒い日の午後、幸恵さんがあたしたちの部屋のドアを軽くたたき、それを開けると顔を見せた。
「入ってもいいかしら」「もちろん」初香が答えた。幸恵さんは優雅な足取りで入ってくるとあたし
たちに尋ねた。「気分はどう」。何も答えないで琴葉が立ち上がると彼女に抱きついた。幸恵さんは
あたしたちの顔を優しく見まわしてから言った。「提案があるの」。あたしたちは緑色の風が吹きは
じめるような予感を覚えて彼女を見た。「今度の日曜日にスケート場に行かない」。あたしたちは喜
びのあまり歓声をあげた。

 雪がひとときの休みを迎えた朝に、あたしは期待に胸を高ぶらせながら眼を覚ました。窓からは冬
の冷たい光が差し込み、あたしたちの顔を薄霞が包んでいるかのようにおぼろげに見せていた。あた
しは周りを見回した。葵衣も琴葉、初香も起きていた。もしかすると眠れなかったのかもしれない。

 街には行ったことことのないあたしたちには、それは新しい世界への扉をひらくことだった。

 あたしたちは、幸恵さんと車に乗って街に向かった。森から街に通じる道は白銀の世界だった。木
の梢から雪が落ちた。それは雪の静寂をあたしに感じさせた。しばらくすると雪が降り始めた。あた
しはその雪を子ども時代の幸せな年月の最後の風景として思い出す。この先に待っているであろう悲
しい出来事が雪の無垢と純粋さによって浄められるかもしれない。そしてあたしたちはスケート場で
幸せな時間を過ごすのだ。雪は夢の中でのように降り続き、あたしの吐く息で車の窓が白く曇った。

 幸恵さんの洗練された身のこなしと愛を語りかけるような話し方が、あたしに彼女への尊敬の念を
いだかせた。

 車が街に入った。
 眼の前に大きな時計台が見えた。雪にうっすらと覆われた時計の文字盤は希望と喜びの白い顔をあ
たしたちに向けていた。その針はゆっくりと時を進め、あたしたちに新しい世界を始動させるだろう。
道の両端の灰色の建物や雪に白く覆われた店の屋根が動き始め、あたしたちを未だ知らぬ空間へと連
れ去ってゆく。道を人、ひとの群れが大股で進んでいくにつれて、あたしたちの後ろに退いていく。
道を歩く人の顔始め蒼白かった。娘の手を引いた母親は丸い体を茶色の毛皮外套に包んで僧侶のよう
に見えた。小さな男の子と女の子が手を繋いで歩いているのを見てあたしは微笑み、それは、あたし
に幸せな時間の訪れを感じさせた。

 あたしたちの眼の前に大きなまるい形をした白い寺院のような建物が見えた。「着いたわよ」幸恵
さんが笑みを浮かべながら振り向いて言った。あたしたちは車を降り、小道をスケート場の方に向か
って歩いていった。こざっぱりとした外套に身を包んだひとたちが小道に群がっていた。あたしたち
は、さらに歩いていった。すると、眼の前にスケート場がひらけ、滑っている人たちの姿が見えた。
素晴らしい氷。銀盤は広く、あたしたちがいつも行く凍りついた湖とは比較にならなかった。あたし
は歓喜と緊張から足がふるえた。「まあ、すばらしいスケーターさんたち、どうしたの、滑りましょ
う」。彼女は長い足を上げて氷面をひと蹴りすると銀盤のまんなかに向かって滑ってゆき、真っ直ぐ
にもどってくると、誘うような微笑みを浮かべてうなずき、あたしたちに手を大きくひらいた。あた
したちは、幸恵さんの後についてスケート靴を進めた。彼女は葵衣の手袋をはめたかわいらしい手を
ひくと美しい笑みをうかべて後ろに滑り始めた。

 あたしたちは彼女と螺旋を描くように滑り出し、少しずつ頬に冷たく爽やかな風を感じていった。

 幸恵さんとあたしたちは白い毛皮の帽子をかぶっていた。背が高くほっそりとした長い手足を伸ば
して清らかに凛として銀盤に優雅な舞いを見せる彼女の氷の精霊のように繊細で煌めくような姿に導
かれて、あたしたちは新しい湖に氷塵の散る透明な軌跡を描いた。

 あたしの前を黒い毛皮にくるまれて幼少期をぬけようとするころにさしかかった男の子が顔を真っ
青にして涙をため茶色の手袋を氷につけてあたしたちのとなりに座りこんでいた。あたしは母親を探
しているであろう幼な児の顔を見て思わず胸に手をあてて微笑みをおさえようとした。

 スケート場を出る時に幸恵さんがあたしたちの前に腰をおろして言った。「わたしは、あなたたち
が幸せになることを約束するわ、わたしを信じてね」あたしたちは彼女の言葉にうなずいた。

 帰りの車の中で、あたしたちは、ずっと黙りこんでいた。街を出る時に時計台が見え、その大きな
黒い時計の針は確実に時間を進めていた。雪は止み、車の窓から見える風景は寂しい静寂をあたしに
感じさせた。幸恵さんの顔は少し蒼白く厳しい表情を浮かべているように見え、あたしは彼女の表情
の変化が何を意味しているのか思いあぐね、意識は幸福の余韻とすぐ先に迎えるその日への恐れとの
あいだで揺れ動いていた。


散文(批評随筆小説等) スケート場にて Copyright コタロー 2019-08-27 06:59:38
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