抜歯の周辺
春日線香

親知らずが生えてきているらしい。レントゲン写真には横向きに生えた奥歯が白く輝いていて、このまま処置をせずに伸びれば隣の歯に突き当たってしまうのが容易に想像できる。今のうちに抜いておいたほうがいいだろうという医師の歯並びがとてもきれいだ。悪くないかもしれない。






誰もいないのにシャワーから熱い湯が流れ続けている。






窓際の観葉植物は枯れ、乾いたひとつひとつの葉が平たく張り付いている。最近、目が覚めると口の中が犬の毛でいっぱいだった。






最初からこうなることはわかっていたのだけれど、いざその時が来ると立ちすくんでしまう。目眩がして足元もおぼつかない。駅からついてきた幽霊が不思議そうに見守っているのがなんとなく感じられる。ポケットに突っ込んだ手に針が刺さって、そこから冷たい汁が止めどなく溢れ出る。






箪笥の裏、床下、排水口の先、いたるところに人形が置かれてある。物干し竿に吊られて、首を折り曲げられて、針山にされて、どの人形も両目を潰されて嬉しそうだ。まるで人形として仮初の生を受けたことが幸せでたまらないといった風に微笑んで。






抜けた歯がどんどん口に溜まってくるので、枕元に用意した洗面器に吐き出す。ぽろぽろととうもろこしの粒でも吐いてるみたいだ。何度かそれを繰り返しているうちに眠りが深くなって、気づくと資料館の中庭を上から覗く視点が始まる。草むらの陰で無数のトカゲが息づいているだろう。






蝶に蜜をかけてやりたいな。バケツに溢れるくらいの蜜の中に何匹も沈んで、陽の光が差し込んで影絵のようで、そのまま庭に置いておくと虫が寄ってきて真っ黒になってしまうだろうな。(それもいいな。)(夢みたいだな。)






キリンは目に涙を浮かべて、深さのある池をゆっくり歩き回るとそのたびに波が押し寄せる。平屋建ての校舎はマッチ箱を踏み潰したみたいにぺしゃんこに潰れている。小さな悪夢の一片がうめきながら空を飛び回る。それにつれて折れ曲がるキリンの首はメトロノームのよう。






ラウンジの床は蜂の死骸で埋め尽くされて足の踏み場もないほどだ。






膝のあたりまで泥水が来ているので歩くのも慎重になる。自転車の残骸や倒れた自販機をやっとのことでまたいで、図書館のほうへやってきた。途中、水面を小さな紫色の花が埋めた小道を折れると、水没してしまった地下鉄への出入り口は板で塞がれて、そのあたり一面は髪の毛に似た藻で覆われて全然通れなくなっていた。






昼も夜も同じ靴を履いてきてしまったと考えながら話を聞いていた。植物は暗闇で眺めるべきではないかと熱弁している人。ひまわり、八つ手、モンステラには人間に似た感情があり、よくよく観察しているとそれがわかるようになるとか。とうに死んだはずのその人は嬉しそうに華やいで、薄暗い室内には草の匂いが立ち籠めている。






モノクロームの画面から常に逸脱していくものたち。それは目の端を横切って細長い体をシーツに潜り込ませる。布団を剥いだそこには影も形もなくて、あるいは錯覚かとも思うが、印象だけが灰色の壁に白線として刻まれる。






詩集に挟んだ青いカード。






空虚を埋めていくということ。






抜いたあとが大きな穴になってそこに血の塊が被さっているようだ。舌で触るとぷよぷよしている。痛みは大分やわらいだがどうしても気になって何度も触ってしまう。これではいけないと思って、気を紛らすために停留所脇の草むらに目をやる。今しがた、白い蛇のようなものが日向を逃げていった。









自由詩 抜歯の周辺 Copyright 春日線香 2019-08-26 18:36:13縦
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