杉谷家にて
コタロー

 あたしは富裕な慈善家の女性にひきとられた。
 あたしの住みはじめる館は芝生の薄い波が海の小弯に向かって続いている小高い丘の上に建ち、庭
には美しい幹を見せる白樺とぶなと名前のわからない木々、鯉の泳ぐ小さな池の周りには水仙が咲い
ていた。その隣にある花壇には、紫陽花や石楠花などの花が忘れないでと訴えるかのように西風に揺
れながら背の高さを競っている。ただ、あたしの好きな薔薇はなかった。門から玄関にかけては青緑
色に切れ切れに白い稜線のある敷石が並べられていて、その上を柔らかい陽光が斑な縞模様を注いで
いた。そして、今。館に到着したその日から美しい苔むした飛び石の流れを踏みしめることになるの
であり、その光の反射があたしに強い目眩を感じさせた。

 館の近くには公園があり、あたしは、その公園の砂場と遊具の側を歩くたびに今ではなく過去を生
きているような気がするのだった。それが何故なのかはわからないわ。あたしを包むものは北国の静
寂から海の風に変わった。あたしは海を見るのは初めてだった。その崖に打ち寄せる荒波があたしを
寂寥に導いていく。

 あたしの養親は若くして夫に先立たれた女性であり、ただ、再婚する気はなく、詩織は慈子様のひ
とり娘だった。慈子様は美しく詩織もまた近いのちに、煌めく貴婦人の美貌を想起させた。二階の廊
下の壁には夫婦の肖像画がかけられており、詩織もまたその隣に掲げられるのだろうかと、あたしは
思った。図書館には多くの本があり、慈子様はあたしに好きなだけ読むことを勧めた。その書物の言
葉は、あたしに知性と教養を与えてくれるだろう。
 詩織は奥行きがあり木目のはっきりした板の張られた壁が気持ちのいい部屋に暮らしていた。子ど
もには少し大きすぎるかもしれない机と、革のソファに木のベッド、高価なアンティークの家具があ
った。窓を開けると気持ちのいい海の空気が流れ込み、いつも新鮮な初夏の香りを生み出していた。
あたしの部屋も家具もおなじ間取りと造り。

 杉谷家に来た次の日の夕暮れに、あたしは詩織の部屋へお茶に招待された。
 彼女は話をしているあいだ、あたしを見て時々微笑した。詩織の想像していた以上の優しさがあた
しをほっとさせ、そして、彼女が素晴らしく溌剌として深窓の令嬢でありながら渙発な輝きを持ち、
その美しさが親しみを増してくるたびにあたしはこの館にいるのだという現実感が浮き上がり、それ
をしっかりと保とうとした。彼女の眼は眩しかった。あたしが思わず顔を俯けると、「どうしたの、
わたしの眼を見ないとだめよ、恥ずかしがらないで、ねえ、わたしってとても変わっているのよ」。
詩織は薬指であたしの頬を跳ね刺すしぐさをした。「そしてね、女の子というものは、幼い時、この
春を生きているうちは背中に小さな羽みたいなものがあるだけなのよ、そうしてね、夏がきて恋をす
るとそれが鳥の翼になるのだわ。そうね、わたしはなぜだかわからないけれど、あなたが好きになっ
てしまったの、だからね、恋はあなたとしかしないつもりよ」。彼女は背中をそらして胸を波打たせ
ながら鼻と唇を手で押さえて笑った。あたしは意味がわからないまま彼女を見つめかえし、しかしな
ぜか不思議な愛情を感じたのである。


散文(批評随筆小説等) 杉谷家にて Copyright コタロー 2019-08-24 05:59:45
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