すいそう
田中修子

 孤独になじむから、すこし壊れかけているような古い町が好きだ。
 その古い町の小さな裏通りに子どもの死体一つ入れられるほどの大きさの水槽があった。緑色の藻が内側のガラスに張り付いていてよく見えない。水もぬったりと淀んでもうじき梅雨にはいる生ぬるい風が吹くのに波打つこともない。これからの季節、蚊がわかないだろうか。
 それともこの中にはわたしに見えないだけで魚がいるのか。

 かつてあったかもしれない水草も光なく腐り、酸素が足りずに喘いでいる魚だ。エラが酸素をもとめて痙攣する。呼吸ができないから魚はどんどん透けて行ってしまう。内側の骨だけが、消えゆく命のように銀色に光っている。
 その澄んだ魚の、ヒューゴー、ヒューゴーという苦し気な音が聞こえるような気がしたのは、脳溢血で倒れて病院に運ばれた母の鼻に差し込まれた透明なチューブと、死へと歩んでいく母の呼吸と。

(あなたはなにをおもっている)

 淡く銀色に光っている魚、すでに溶けてかけている目玉、落ちくぼんだ眼窩と。
 そんな姿になってもゆらりと泳いでいる魚と、わたし。
 一枚のガラスをとおして見つめあっている。

 と、歪んで崩れてゆく世界。

 わたしは水槽の中にいた。
 いや、水槽ではなくて、そういえば、わたしのいるのはガラスの箱舟だった。なにをぼんやりとしているのだろう。

 幾度目かの洪水があった。人はほとんど滅びかけていた。父も母も知らずに育って、コンピュータ先生の作った楽園という名の孤児院で暮らしていた。
 あれは紫陽花の咲く季節だったと思う。そう、紫陽花が異常繁殖したのだった、あれが兆しだった。雨が降って降って紫陽花の杯にたまり、そしてやがてその杯から水がコンコンと湧き出して止まらず、地上にあふれだしたのだった。その水は紫陽花の放つ薄紫色をしていて淡い色の水平線になった。
 人はみなその美しい水にとりこまれて、人としての輪郭を失い溶けていくのだった。あれは幸福だったのだと思う。
 夥しい幸福の死から何かによって取り残され-たぶんコンピュータ先生の選定によるもの-、ガラスの箱舟に閉ざされてしまったわたしら。
 ここにはあらゆる動物や植物が、つがいでいる。
 ビルディングのような高い高い箱舟で、あらゆるものが閉じながら循環できる構造になっている。
 わたしは動物の世話という生きる目標を与えられている。もう何年になるか。
 きちんと整備された動物の部屋だ。きっとコンピュータ先生なら、餌から糞尿まで自動的にきれいになるように方舟を設計出来たろうに、わたしの仕事のためにわざと自動化されていないところが残されている。いつもの糞尿と藁の湿ったにおい。
 
 このところ、異変があった。ふしぎな黴の増殖だ。
 放っておくと緑色の黴にびっちりと覆われていく。その緑色の黴を近くで見ると何かの鱗のようにも見える。もう数年あてどなくさまよっている箱舟の、動物たちでさえ何かしらのあきらめをふくんだ沈黙の空気と。
 
 --わたしがくるのはいつもこんな世界ばかりだ。

 「また増殖していく黴をみているの。黴を削いで、それから、動物たちの世話をしないとね」
 呼ばれて振り返ると細身の筋肉質の男がいる。彼は、わたしのつがいだ。幼いころからずっといたので兄と思っていたが、血は繋がっていないのだった。

 彼の、かつて日に焼けて浅黒かった肌は色白くなっている。こんな状況でも彼はぜったいに声を荒げない。いや、一度だけ低くなった声を聞いたことがある。わたしが生きることに飽いて首を深く切った時だ。大量の血を噴出させながら、それでもなぜか気絶しただけで死ねなかった。気づけば足の先から髪の隙間まで血のこびりついたわたしを、彼が抱きしめていた。失禁もして、寒くて寒くてガタガタと震えていた。
 気絶していたわたしを見つけて、切り裂いた首を彼は手で押さえ続け、止血をしてくれたのだろうと思った。のどが渇いてうめくわたしにくちうつしで少しずつ水をくれた。
 つがいではあったしつがったこともあったが、軽い快楽を得るだけでそれまで特に彼になんの感情を抱いたこともなかった。
 水が甘かった。
 彼はしっかりと私の目をのぞき込み、低い、低い、冷酷な声で言った。私は、まるではじめてあらわれた人を見るように彼を見た。
 「いいか。おまえはおれのものだ」
かすれた声で、はい、といった。
「おまえが投げ捨てた命をおれが拾った。だからこれからおまえはおれのものだ。わかったな?」
また、はい、といった。
 気持ちのなかに紫陽花の咲く静寂が訪れたようだった。

 慢性的な低体温だけが残った。あれから、肌色だったわたしのゆびさきは白くなり、時たま輪郭が溶けていくように薄紫色の燐光をはなつことがある。その燐光に照らされて緑色の藻が方舟のなかに増殖していくことも、ほんとうは、気付いていた。

 数か月たって、方舟のなかに、死の病が流行り始めた。
 緑色の藻はいまやガラス質や機械だけでなく、ほかの人間のつがい・動物のつがいを覆うようにもなった。特に人間だ。生きる意志のないものから、一晩で黴が皮膚を覆いつくし、崩れていった。夕暮れに発症し、朝には小さな山になるのだった。
 紫陽花色の水にふれて輪郭が崩れていった幸福な死の様相と、あまり、かわらなかった。みな、ふっとロウソクを吹き消すように、静かに命の灯を消してゆく。
 あの、首を切って死に損なって以降燐光をはなつようになったわたしの手同様、目もおかしくなったんだろうか? 時折、命が灯にみえるようになったのだった。そのひとの皮膚をとおりこし、輝いている命、弱っていく命が見えるのだ。
 はじめての死者が出たその朝、かき集めた死骸を方舟の外に放った。はじめての死骸は水葬するつもりで、柔らかい赤い毛布に包んだのだった。そうしてその赤い布を金色の光線と薄暗い水色の入り混じる水平線へと放り投げた。
 赤い布は内側から風船のように膨らみ、やがてパチンと千切れた。内側から何羽もの白いハトが飛び立ち、あかるい陽の差すほうへ羽ばたいていった。

 それから幾度も幾度も水葬を行った。くずれおちた死骸は途中から布に包むのはよして、手でつかみ、放って投げるようになった。わたしの手はそのたびに、内側から薄紫色に輝いた。そうして方舟からはなれると、かつて人や動物で、死んで、黴になったものは、たくさんのものになった。
 白いハトになったのは最初の遺体だけだった。
 あとは魚になったり、貝になったり、海藻や、珊瑚や……あらゆる種類の海の生き物になった。
 あるいは花になり、まるで自らの死をみずからの変身で弔うように、淡い色の海の上へ、遠く漂っていった。重なる水平線の揺らぎの向こうへ遠ざかっていくその白い花を、わたしはずうっと目で追った。死があらたな生に変換され、あらたな生を惜しげもなくまき散らしながらすすんでいくガラスの方舟に、閉ざされている、わたし。

 死んでしまえれば、どこかへ、ゆけるのに。

 水葬を繰り返しながら、幾度も幾度も、わたしはわたしのつがいを横目で見た。彼はいつも淡々として、安定している。静かな声で話す、でも時たまくだらない冗談を言って笑わせてくることもある。わたしは子どものように思いついたことをなんでも話す。彼はわたしの言葉に耳を傾ける。
 夜遅く眠り、朝早く起き、ともに仕事に出かけ、一緒に方舟のなかで食料を調達し、時間になれば料理を作る。彼の作る野菜スープやサラダがとてもすきだ。ざくざくと刻んで、すこし塩味をつけているだけなのに、ほろ苦いのや甘いのや、たくさんの味がする。そうして、ときおり、わたしを抱く。
 のしかかられて彼の背中に手をまわし、爪を立てながら、わたしは性的な快楽よりむしろ、彼のなかの命の灯に照らされることに喜びを感じる。彼の命は灯というよりはむしろ、巨大なたき火……炎に近い。数メートル近く赤々と光る炎。燃え上がる火柱にあおられて、わたしの髪の毛がチリチリと焼ける音さえ聞こえることがあるような気がする。
 こんなに穏やかな人のどこにこんな力があるのだろう。
 行為が終わる。火をもらって、この瞬間だけ、指先すべてに血が通ってあたたかくなる。

 「コンピュータ先生に拾われて孤児院に行く前さ。おまえはまだ小さくて覚えていないが、おれは災厄があってから拾われたからね」
寝転がりながらしゃべってくれたことがある。
「村があったんだ。両親がいて、親戚がいてね。米を作っていたのさ。田んぼがあって、稲刈りが終わって残った藁を、あつめて焼くんだよ。三メートルくらい火柱がたつね、一メートルも近づけない。すごい音がしてさ……おまえはあれを見たことがないんだね」
「わたし、孤児院育ちだから」
「だからそんなふうに命を粗末にするんだね」
いまはもう白くなった、首の傷跡をなぞられる。それは、頸動脈を淡く抑えられることでもあった。

 わたしのからだは日に日に透け、そうして薄紫色の燐光を放つ。藻は燐光にあてられて日々増殖し、人はわたしと彼以外すべて飲み込まれてしまったが、動物や植物は逞しく繁殖していく。動物は寿命を終えるその日以外、わたしに感染することはない。生きているうちに感染するのは、人だけだった。

 彼がわたしに感染するときがあるのだろうか。この、巨大な火柱を内側にもつ男に。きっとそれは不可能なことだと思う。彼はわたしを半ば妹として見ていることもしっている。

 この方舟が約束された地にたどり着く日を待っている。
 最初の遺体の白いハトがやがて月桂樹の葉を咥えて戻ってくる。祝福の鐘の音はすでに耳鳴りのように低く響いている。
 約束の地にはまだたくさん人がいるだろう。彼はそこで理想の恋人に出会い、わたしを捨てるだろう。半ば壊れたコンピュータ先生はどうなるのだろう?
 わたしはまた独りになり、黴となって崩れ落ち、そうして、孤独な少女の指先に宿って、たくさんの生き物を咲かせることができるだろう。


散文(批評随筆小説等) すいそう Copyright 田中修子 2019-07-26 13:40:02縦
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