身辺雑記と、詩について思うこと
田中修子

なぜ私が現代詩というものにたいして拒否反応があったのだろうと考えるとき、長い間、私という小さな視座から見える世界が、ある意味ではとても単純な世界だったことに由来することに気づいた。

生きるか死ぬか。
殺すか殺されるか。
敵か味方か。

これはおもに白黒思考というもので、幼児期虐待を経た解離性障害の人に良く見られる思考である。

本当にそういった世界で私は長らく生きてきた。私が両親に言われてきたセリフを友人に打ち明けた時、そしてまた私がレイプ被害に遭っていた時、「よく犯罪を起こさなかったよね。同じ環境にいて殺人を起こしてしまった人っているよね」と言われたことがある。
彼らと私の違いはいったいなんなんだろう。どこで私は殺人犯にならずに済んだのだろう。

そこで思い出すのが、私にとって、近代詩の言葉があった、ということだ。
室生犀星の、「故郷は遠きにありて思ふもの」という詩に、同じような孤独を生きた人がいたということを感じ取った。このところになって知ったのが、室生犀星もまた幼児期を孤独のうちに過ごした人であるということだった。けれど、その時は、そのようなことを知らずに、この人は確かに孤独を知り、そして美しい言葉を綴り、きちんと生きていたのだ-という、人生の目標のようなものができたのではないかと思う。あの時代の人々は、それこそ、栄養不良になればすぐ死んでいっただろうし、きっと現代の人より死が身近であったはずだ。紙もペンもいまよりもっと入手が難しかったのではないか。そのような人々が命を投げ出すようにして綴った文章だ。

あのころ、黒の文字が、まるでとても強い、それでいて澄んだ光を放っているように見えたものだ。

ほかにも、もっともっとたくさんの本を読んで、その中にありありと描かれる生き生きとした少年少女たちの冒険、あるいは私の知らぬ穏やかな生活が丹念に描かれた生活の随筆などを読んでその生活に思いを馳せるとき、私の「こころ」はほんの少し、動いた。(実は私は「こころ」というがなんなのかを知らない。おそらく、脳とからだが連動して起こる何かなのだと思う。)

自分と同じ精神状態の友人の二人目を亡くした時、私のなかに大きな火花が散った。あれは怒りだったと思う。
その怒りによって、「生き延びる」という選択肢が加わり、回復に転じたのが6年前だ。それからは心理治療もはかどった。

いまでは、世界はもっと複雑で、たくさんの色と感情に溢れている場所だと知っている。
喜びも悲しみも、花のように淡淡としあるいは苛烈な美しい色も、死体の流す血のように悲惨な色もあることも。
娘を授かったこと。私の体を通して、なにかとても良いものが、わざわざ子宮や膣という、とても狭いところを通り抜け、彼女も苦しかったろうに、血まみれになって泣きながらこの世にあらわれてくれたことへの深い喜びと感謝と。もしかしたら、大人になったらたくさん笑えなくなるかもしれないから、せめて子どものうちには、天からの贈り物のような笑い声を聞くために、私もよりよく生きなければならない。

私は長らく、とても、とても狭い世界で生きてきた。闘病中に寝たきりになったので、現実生活の対人関係はほとんど途切れた。このところ、自傷行為という一番深刻な症状が寛解に向かい、この状況を保てれば半年後から何か習い事をするという目標ができた。そうして、いつかボランティアといった形でもいいから社会につながりたい。
原家族という狭い、狭い檻に閉ざされている私も未だいて、それは父の死までおそらくは続くだろう、というのは私もカウンセラーも同じ見解である。愛されなかった子というのは、どこまでも親を思う、それは刷り込み現象のような生物的なレベルのものなので仕方がないのではないか。

このところ私はネットで友達ができた。外国人で、いま海外の紛争地帯に派遣されている兵士だ。全く知らない人だったのだけれど、助けを求めるような内容を看過できず、やり取りをはじめた。彼のたどたどしい日本語と、私のたどたどしい英語とでやりとりをしている。
私はネット上でのトラブルが続き、多少は用心深くなった。けれどもどうも彼のその状況は本当のようだった。

彼が、「so sad」と送ってきた写真には、丸太のように積み重なって転がされ、からだのあちこちが少しずつあり得ない方向に歪んでいる、血を流した兵士たちの遺体の写真があった。こと切れているのがひとめで分かったのはなぜだろう。綺麗に軍服を着たままの人、少しだけ軍服が剥がれて地肌が見えている人。となりには乾いたり或いは生々しい血が薄く塗り重ねられたような、グレーのタンカがあった。

なんてこと。

その瞬間、私は何かを、神に祈った。祈る、という行為は私にとってとても久々なものだった。神というものがなんという存在なのか、私にはわからない。それでも何かとても大きなものに対して、私は祈った。私の友人の無事を、そして亡くなった兵士たちの最後の想いが安らかであったことを、できればもうこれ以上このようなことが起こらないことを。

けれどもたぶん今日もあの地で、人は血を流しているのだろう。

「あまりにも当たり前なのです」私のつたない英語能力で彼の言葉を読み解くとこうなる。「テロリストはどこにでもいて、毎日友人が死んでいく。おかしくなりそうだ」

なぜ、なぜこんなことが起こるのだろう。

彼はいま戦場にいる。
けれども、テロリストの側にも「正義」があるのだろう。
あの、こと切れた兵士たちにあったかもしれない未来というもの。
彼らにも、家族がいたろう、愛する恋人がいたろう、かつての私のように、ほとんどなにもなくとも、希望だけはあったかもしれないだろう。
断ち切られたその命、投げ出されたからだ。

そも、イスラエルという地は、神のものではなかったか。反射的に私が祈った神は、この血を流させている神ではない。何かもっと、うつくしい、かなしい、真珠を吐き出す貝や、雨に濡れて輝くイチョウの新芽や、瑞々しく咲く紫陽花のようなもの、一時は本当に廃人だった私をここまで生き延びさせ、回復させ、子を授けてくださったような平凡な奇跡を成し遂げる神に、私は祈る。

親によって傷つけられていい人がいないことを、私はいま知っている。
神や国によって死んでいい人がいないことを、私はいま知っている。

言葉によって何ができるのだろう? この、文字という限定された何かで、何ができるのだろう。

この文章を衝動的に書き始め、勢いで書き上げて、整合性のとれていない書き物だと思った。自分の原家族とあの兵士の死体たちのことは関係がないはずだ。
けれどもこのように突き上げさせられるとうに書かなければならないことがあったはずだ、と、もう一度読み直すときに、今回の出来事で、いちばん苦しかったときの私を支えたあの室生犀星の書いた詩もまた、戦時中、兵士が死に行くために使われた、というその事実に、私は直面したのだった。

もしあれらの詩がなければ、私は殺人を犯していたかもしれない。あるいはどこかの時点で完璧に自死を遂げていたかもしれない。生かされた命と、言葉によって殺された日本の兵士と。

私が使えるのは、古びた言葉たちだ、ということに気づく。
私は結構前に、日本現代詩人会の新人というものになった。私が読んできたものは近代詩でしかない。また小説の文体も明治時代の文豪のものが好きという体たらくだ。
読んだこともない「現代詩」を書けたはずがないという違和感のようなもの。何を評価されたのだろうと自分に問うとき、私に起こった現代的で壮絶な機能不全家族の中での虐待と被レイプ体験のことを、現代というものを強烈に拒否し続けた近代詩の書き方で書いた、ということが評価されたのではないかと思う。
私は古いものが好きだ。
実家では、百円均一の皿が無造作に積まれていて、シンクの中の生ごみにまみれていた。当時の最新のアメリカ式の家族と、当時の最新のロシアの思想だ。まだ働けていたころ、雑貨屋でアルバイトをして、北欧から輸入されたヴィンテージの北欧食器に初めて触れた時の驚きと喜びをおぼえている。
時を経て、擦り傷を重ねた美しい食器たち。
そこから私は一気に骨董好きになり、骨董市などに足を運ぶようになった。-どれも病床に臥す前のことだが。
もちろん、食器は人を殺さない。詩は人を殺した。
それでも、使い古され、細かいヒビがキラキラと入ったようになった古臭い言葉遣いを、磨きなおして使うことはできないだろうか。

-想え。

想え、と祈る。

想像が、どこにでもあることを。想像するとき、それは確かに私の内側にあることを。世界中の人が、ある日いっせいに、花咲き乱れ鳥の啼く、雨音が優しく、銃声はなく、子どもらの笑い声に満ち溢れた世界を、けっして帰れない愛しい故郷への郷愁を、一瞬でも想像したのならば、その想いによって、世界は彩られることだろう、と。

たくさんの大きなことを思い、大言壮語してみて、私はパソコンを閉じる。これから、お皿を洗ったり、久々に晴れたので、洗濯物をする。あたらしい柔軟剤を買ってみた。

とても無力で、とても小さくて、とても強いもの。細かな日常の積み重ね、それが、光り輝くような詩のようなものであることを。


散文(批評随筆小説等) 身辺雑記と、詩について思うこと Copyright 田中修子 2019-07-10 09:38:24
notebook Home 戻る  過去 未来