「人間の欲望にはきりがない」を理屈で論じる
マサヒロK

人間の欲望にはきりがない、とはよく言われることで、実際そのようなことは世の中に溢れている。
では、なぜそうなるのかというと―「無」を物質で満たすことはできないということ。話を進めるため端的に、人間の究極の幸せは何かということを強引に言わせていただくと(そんなことお前にわかるのかと言われそうですが)、仏教においては「無」の境地、西洋的にいえば「神の懐に抱かれる」、ひっくるめて言えば「悟りを開く」ということだと思いますが、いずれもそれは全体との合一を意味しているように思われる。全体とは、宇宙空間そのもので、無限の広さ・深さを持っている。人間とは潜在的に誰もが悟りを開きたいと思っているし、それが究極の目的であると感じているはずである。しかし実際には、悟りを開くことなど至難の業。たいていの人間は、自分の感情と煩悩の中でこの世を終えていく。しかし、悟りに対する欲求は根強くある。そこで、なんとなく気持ちのいいこと、気持ちの晴れることをしてその欲求を満たそうとする(悟りとは、最高の至福感を伴うということを本能が知っているのであろう)。しかし、究極の「無」とは無限大である。金にあかしてどんな贅沢をしようと、どれだけの権力を手に入れ好き放題のことをしようと、無限大にはかなわない。「無」を何かで満たすことなどできないのです。どれだけ自分のその時の欲望を満たそうと、結局何をしたところで物足りない。結局次から次へと新たな欲望を「無」の穴埋めのために投入するのだが、無尽蔵の空間が満たされることはないのです。悟りの境地に達するまで、欲望は続くのです。それが、人間の欲望にきりがないからくり・・・と理屈を付けてみたのですが、いかがでしょうか?
こう書くと、人間の幸せなど一生得られないように思えるのですが、そんなことはありません。足りることを知ることです。何を望もうと結局は一緒ということを知ることです。そういった日常の小さな悟りが、やがて大きな悟りに繋がるかもしれません。


散文(批評随筆小説等) 「人間の欲望にはきりがない」を理屈で論じる Copyright マサヒロK 2019-05-11 08:29:24
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