人間をパソコンに例えて「無」を論じる
マサヒロK

 前回の「人間空洞説」と同じ流れの話ですが、人間をパソコンに例えると、何かわかってくるような気もしますので、記します。
 パソコン本体があるとします。まずは本体のみで、何のアプリもソフトウェアも、周辺機器も付いていません。全くのまっさらの状態。これだけではパソコンは動きません。何かをさせるために、アプリやらソフトやらを入れます。しかしそれだけでも何もパソコンは用をなしません。入力する為のキーボードやマウスを付けます。しかしそれでも用をなしません。モニターを付けて、初めてその結果を見ることができ、作業ができます。これがいわばパソコンの基本形態です。
 これを人間に当てはめてみると、まずは脳を中枢とした肉体があります。これはいわばパソコン本体です。この肉体(脳)に「教育」「経験」「環境」等がインプットされます。これはいわば「アプリ」「ソフト」です。それに外部からいろいろな刺激が与えられます。それはマウスやキーボートといった入力機器に相当します。「外部からの刺激」によって、教育や経験や環境等によって形成された「人格」が反応します。その反応が「感情」です。感情の表れがパソコンの「モニター」に相当します。さて、モニター、キーボード、アプリ(ソフト)、本体、の中で、パソコンそのものと言えるのはどれでしょう?モニターでしょうか?違う、でしょうね。キーボードでしょうか?それも違う、でしょうね。それはただの周辺機器です。アプリでしょうか?それも違うでしょうね。それはただの道具の一種です。となると、消去法で言っても、パソコンそのものと唯一言えるものといったら、パソコン本体しかありません。「まっさら」の、本体です。
 パソコン的に人間を考えると、「教育」「環境」等は後天的に与えられた外的な条件であり、それは自分自身ではありません。「外部からの刺激」は他者であって自分ではありません。「感情」は一種の条件反射です。外部からの刺激によって、人格が反応している状態を表しているだけです。そして、たいていの人間は「感情」を自分自身だと思い込んでいる。それと同一化している。しかし感情とは、単なる状態であって、人間本体ではない、のでは?かつて、覚醒者といわれるグルジェフが、「ほとんどの人間は自動機械である」という趣旨のことを言っていましたが、たいていの人間は条件反射によって生きている、という意味でしょうか。「感情」とは、脳つまり肉体によって引き起こされているので、単なる物理的現象かもしれません。グルジェフ風に言うと「人間は物理的にしか生きていない」でしょうか?
 仏教における「色即是空」とは、いろいろな解釈があるかもしれませんが、私の解釈では、人間が「自分」だと思っているものは、本当は無い(空)。それはただの感情(色)。色とは、「色眼鏡で見る」と言うように、自分の感情で物事を見ること。それはただ単に、自分の感情が外部の物事に反応しているだけで、物事そのものを見ているわけではない。物事を通して自分の感情を見ているだけの話。人の数だけ見方が違う、というのはそれが理由。
 仏教においては「無」の境地が最終段階。西洋の宗教では「神」という言葉で表わされる。では、「無」との合一が最終段階なら、なんで神や仏は最初から「無」を我々に与えてくれないのか?
それは、「無」とは「有」という正反対の状態があるからこそその存在が際立つ。正反対のものは正反対のものがあって初めてそれに気づく。「感情」があるからこそ、それを放棄する瞬間に初めて人は「無」と同一化できる。有と無の間の落差によって初めて人は無の深みに達する。そういうことじゃないかな、と理屈では分かったような気でいるのですが、いかがでしょうか?


散文(批評随筆小説等) 人間をパソコンに例えて「無」を論じる Copyright マサヒロK 2019-05-04 11:57:31
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