たまです。
たま

五時に目覚めた。
やはり、痛む。

連休前に宮本先生にもらった錠剤は四日分だから、昨日の朝に一錠飲んでなくなってしまった。
五月一日だった。連休のど真ん中だから宮本先生には診てもらえない。
困った。
まだ、痛む。
朝食をとって、レンといつものコースを散歩する。痛み止めの頓服はまだあるけど、頓服は治療薬とは言えないし、あまり飲みたくはなかった。
それで、ダメ元で検索してみることにした。

/連休中の診療機関 waka…ya…ma……。

救急センターは避けたい。
患者が大勢いるだろうし、この私が急患かというと、急患でもない気がする。それに救急センターで「たまが痛くて……。」なんて恥ずかしくて言えない。私が診てもらいたいのは泌尿器科の先生だけだ。
しかし、そんなこと言っても我慢できる状態ではない。
十分ばかり検索してみると、隣の町の医療センターで、泌尿器科の診察のみ受け付けているみたいだった。
え、ほんとに……? 嘘みたいだなと思いつつ電話してみる。

呼び出し音があって、休館を伝える機械的な案内音声があって、
あ、やっぱし嘘か……。と思ったら、野暮な男の声に切り替わった。
どうやら医療センターの守衛らしい。
泌尿器科の診察を受けたいと伝えると、
「八時半に先生が来ますから、もう一度電話してください。」と言う。
時計を見ると八時五分だった。
「お名前は?」と野暮な男が聴く。
「たまです……。」と答える。

隣の町まで車で三十分ほどかかる。
雨が降り出した。
痛みの発生源は直径一センチ余りの部位だけど、その痛みが臀部に広がって、車の運転は苦痛としか言いようがない。
ジクジクと痛む。
目の前のワイパーの動きがその痛みをさらに助長する。信号で止まる度に尻を浮かせて痛みを放逐するが、そんなこと気休めに過ぎない。
やれやれ……。蒼いため息が出る。
たどり着いた医療センターは真新しくて立派な建物だった。
当たり前だけど、がら空きの駐車場にラパンを止めて、傘はささずに正面玄関に向かう。玄関の左手に守衛室があった。

「あの、たまです。」と名を告げる。
「あ、たまさんですね。中へどうぞ。」
守衛さんはふたりいた。ふたりとも六十は過ぎているだろうか。私と同世代かもしれない。
八時半過ぎにもう一度電話して、看護師に症状は伝えていたが、診察の受付はまだ済んでいない。その受付をどうやら守衛室の窓口でやるみたいだった。
医療センターは休館日だから、普段の受付カウンターは閉ざされてひっそりしている。
守衛さんに保険証を渡す。
狭い守衛室のディスクトップパソコンに向かって、背の高い守衛さんが慣れない手つきで苦戦している。私の名前が変換できないらしい。
「須磨海岸の須です……。」と助け舟を出すが、余計なお世話だったかもしれない。
「ああ、あった、あった……。」
こんな日の守衛さんもたいへんだ。
ちなみに、たまの漢字表記は、霊魂(たま)と決めてある。

驚いたことに守衛さんが四苦八苦して、私の診察券を発行してくれたのだった。
あ、申し訳ない……。と心から感謝するしかなかった。
雨の日の暗い廊下に灯りはなく、泌尿器科の診察室まで、背の低い守衛さんが案内してくれる。
総合病院と比べたら規模は小さいが、それでも診療科はほとんど揃っているのに、今日は泌尿器科だけが診察を受け付けているのだ。
あとで知ったことだけど、明日は内科の診療日で、明後日は耳鼻科だという。十連休に対応するためにそうなったのだろうけど、守衛さんにはとんでもない連休になる。
泌尿器科の診察室はふたつあって、診察室の前の廊下に椅子が並んで、ふたりというか、二組の患者が腰かけていた。地元の人だろうか。診察室のドアが開いて担架で運ばれる老婦人もいて、やはり急患ばかりなのだろう。緊迫した空気が流れている。

私は尻が痛くて、椅子に座れないから立って待っていたら、
椅子で待つ二組が呼ばれる前に私の名が呼ばれた。どうやら電話で受け付けた順番らしい。ということは、もう一度守衛さんに感謝するしかない。
白衣の先生は無精髭が似合う若い男だった。
かなり男前だ。テレビドラマで売り出し中の若手俳優みたいで、少なからずオーラを感じさせる。
「どうされました?」とその俳優が聴く。
「あ、はい。ちょっと、たまが……。」
患者役の私は口ごもりながら、手短に症状を伝えると、宮本先生とこでもらった薬袋を見せて、これと同じ薬が欲しいと伝える。
すると、看護師が部屋にある診察ベッドに横になれという。やはり、先生にたまを見せなければ薬はもらえないのだろう。ジャージのズボンを下ろして、先生にたまを診てもらう。

左側が痛む。
薄いゴム手袋をした先生が、たまを摘まんで、
「痛いですか?」と聴く。
「たまは痛くないけど、たまの下が痛いんです。」と私は曖昧に答える。
「小さいですね。」と先生が言う。
私のたまは左側が小さくて、右はふつうに大きい。原因はよくわからないが、三十歳の頃におたふく風邪にかかって、左側がパンパンに腫れて、高熱でカサカサになったふぐりの皮が二枚も剥がれ落ちた。左が小さい原因があるとしたらそれしか思い浮かばない。
十年ほど前に宮本先生に指摘されて私は初めて気づいたのだ。
でも、痛む原因はそれではないような気がする。たぶん、まだ若いこの先生にもわからないはずだから、私もそれについてはどうでもよくて、とにかく薬がほしい。

診察は十五分ほどで終わった。一週間分の薬をもらうことになった。
宮本先生とこでもらった薬がなくて、それに似たような抗生物質だった。
再び守衛室に戻って、診察が終わったことを伝えると、今日は休館日なので会計ができないから支払いは後日ということになった。
支払いを約束する念書に一筆サインしたが、日付欄は平成と印刷されたままだから、平成31年5月1日と書き込むと、守衛さんが「あ、それや……」と言って困った顔をする。
令和1年5月1日と、しなければいけないのだ。
「あとで訂正しときますから。」
「あ、すみません。」
医療センターを出る前にオシッコがしたかった。
「あの、トイレへ行きたいんですけど。」
「こちらです。」
なんと親切な守衛さんだ。トイレまで案内してくれるなんて、と思ったら、背の低い守衛さんは、私と並んでオシッコをするのだった。

男はどうしても前立腺の病いに悩まされる。
前立腺は精液の精錬所みたいなとこで、これがなかったら男は子孫を残せない。
前立腺肥大とか、前立腺炎症とか、症状はいくつかあるが最悪は前立腺癌だろう。八十過ぎてからの癌であればショックも少ないが、四十、五十代だとかなりショックを受けることになる。
昨年、文芸誌「群像」に、四元康祐の前立腺癌闘病記「前立腺歌日記」が掲載された。「群像」は私の愛読書なのでその連作はきっちり読んでいた。

四元はドイツ在住の詩人だから、その闘病記の舞台もドイツになる。現地で前立腺癌の摘出手術を受けたのだ。
小説としてのその闘病記はあまり高い評価は受けていない。私の感想も、詩人が小説を書けばこうなるだろうという程度だった。しかし、興味深い小説であることは間違いなかった。
場所がドイツとはいえ、前立腺癌の治療について事細かく書き綴ってある。それは日本であっても同じことだろう。
前立腺を失った詩人の姿は、私にとって他人事ではない。いつか私も失うかもしれないし、その確率はかなり高い。
私の場合、もう二十年ほど前から漢方薬を服用しているし、宮本先生に勧められて年に一度血液検査も受けている。前立腺癌は血液検査で簡単に見つけることができるらしい。つまり早期発見につながる。

そんなわけで、今日はもう五月四日。
嘘みたいな医療センターの先生と、親切な守衛さんに助けられて、薬を手に入れた私のたまは、少し回復したみたいだ。
令和元年の祝福の日に、私はたまの痛みをこらえて隣の町まで走った。
私にとっての、令和という時代が始まったのだという、ちょっぴり苦い想いが、切実に込み上げてくる令和の幕開けだった。












散文(批評随筆小説等) たまです。 Copyright たま 2019-05-04 10:12:15縦
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