環天頂アークの下で
アラガイs


聞き取りにくい小さな呟きだったが、それは明らかに残り少ないわたしの寿命を確信させるには充分な囁きだった。
娘の笑い声に眼を覚ました。今日という日が何年の何日なのか、わたしの記憶のなかでは平成の文字が巡るだけだった。
暗い部屋の傍らから射し込んでくるわずかな灯り。息づかいの音を殺しながら、冷えた筋肉の、強張った皮膚を剥がすように、瞳を右に動かしてみる。白い衣服が対話の動きに揺れていた。
それは微かな残り香が漂う笑い声ではあったが、これも最後になるのかと思えば、まるで天上の喜びのように溶けた記憶の糸をくすぐった。
そういえば最後を見送ってやれなかった母親との笑い声はいつから途切れたのだろう。
白い布に巻かれたまま、誰が傍らに寄り添い、なにを夢見ながら異界に旅立って逝ったのだろうかと…
あれはいつの日だったのか。
山頂に辿り着いたとき、寄り添う年寄りたちは突き出た石の背に腰をかけ、眺めるのは麓から沸き上がる雲海のざわめき。
やれやれと重い腰を屈めた母親の、傍らにある硬い石を促してやり、 何か欲しいかと尋ねていた。
すると老婆はわたしの顔を見て、林檎じゅうすと笑いながら小さな声で応えてくれたのだ。
やがて雲海が晴れ渡り、山河巡る駿馬句の景色が顔を覗かせる。
荒れる対岸の河を乗り越え、こうして辿り着いた山の頂上。
見下ろせば七つの色彩に染まる輪の麓。空に響きわたる鬼どもの笑い声。 夢見るように、眠りたい、
、 そうだ、 わたしは笑い声のなかで眠っているのだ。




自由詩 環天頂アークの下で Copyright アラガイs 2019-04-30 01:26:00
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