再度の怪
阪井マチ

 昔馴染みの友人と町を歩いていて、歩道の隅にけものの彫像が置かれている一角に差し掛かった。
「そういえば、この辺りで幽霊を見た、という話を聞いたことがある」
 何の気もなくそんな話を始めると友人は振り返って私の顔を見た。
「その幽霊っていうのは、こんな顔だったんじゃないか?」
 どんな、と思うと彼の姿がどこにもなくなっている。つい一瞬前まで目の前にいたはずなのに、広いがらんとした歩道には私以外誰の姿もなく、町の喧噪が遠くから伝わってくるほかに人の気配は何一つしないのだ。
 周りをいくら見回しても、声を掛けても、友人は戻ってこない。ざわざわと胸に不安が湧きおこり、私は堪えられずその場から逃げ出した。人の姿を求め真昼中の町を駆け巡った。
 ようやく人通りのある道に出たとき、私は何だか途方もなく疲労していた。振り向いたとき彼はどんな顔をしていただろう、と考えると頭に紗がかかったようになり、身体中から汗が噴き出して止まらなかった。
 顔を上げてみると、すぐ近くで食堂が営業しており店内はたくさんの人で賑わっていた。震える足を動かして私はその店に入った。誰でもいいから人と話がしたかった。
 いらっしゃいませ、と言い掛けた店員が、気遣わしげな顔で近寄ってきた。
「どうしたんですか、そんなに真っ青になって。まるで幽霊でも見たような顔をしていますよ」
 私は縋りつくように、その店員に今し方あったことを語り聞かせた。話し終えたあとで、たった今大変な間違いを犯してしまったのではないかという思いに襲われた。話を聞いた店員は断りを入れていったん先客の注文を取りに行った後、戻ってきて私に言った。
「怖いですね」

 その日はそこで食事を済ませて帰宅した。その食堂にはそれがきっかけでよく通うようになり、話を聞いてくれた店員と徐々に親しくなった。数年後に結婚して、娘が一人生まれた。子育てに仕事にとあわただしく日々が過ぎていきながらも、概ね穏やかに家族三人の生活は続いていた。
 日曜日の朝、リビングに入ると娘がコーンフレークを食べていた。娘は部活も習い事もしておらず、休日はほとんど家にいた。白い器に牛乳をたっぷりと注いで、フレークをふやかして遊んでいた。
 台所で食パンを手に取りリビングへ戻ると、妻も食卓に着いていた。彼女は私の顔を見てこう言った。
「ねえ、幽霊っていうのは、こんな顔をしていたんじゃない?」
 その言葉の意味が取れたとき、彼女の姿はもうそこになかった。食卓の前にいるのは娘だけで、妻のいた場所には食事の形跡どころか椅子すら置かれていなかった。ざらついた何かが身体の奥から湧いて広がっていくような気がした。
「なあ、お母さんはどこに行ったのかな?」
と娘に話し掛けたが、ぽかんとした顔で私の方を眺めるだけで何も応えてくれなかった。白い器の中でコーンフレークの細片がゆるゆると揺れていた。落ち着かない思いのまま、ゆっくりと妻の名前を呼んだ。何度も呼んだが、応える声は返らなかった。名前を叫んで回りながら家中を探した。しかし妻は見つからず、そもそも彼女が持っていたものも、生活していた痕跡すらもまるでなくなっていた。
 二階の寝室で物影という物影を必死であらためていると、階段の下で何か重みのあるものが落ちるような音がした。急いで下へ降りると玄関に色鮮やかな紙片が散乱していた。手に取ってみると、それはプリントされた写真であった。季節も場所も様々の大量の風景写真が、沓脱を覆い隠すほどに広がっていた。どの写真にもいつかどこかで見たことのある景色が写っていた。その風景の中には人の姿があった。カメラに顔を向けた男女がときには一人で、ときには複数で写り込んでいたが、その中に知っている顔は一つもなかった。これが何であるのか、私には何も分からなかった。
 訳が分からないままリビングへ戻ると、娘が窓枠で首を吊っていて、引き攣った表情で事切れていた。
 玄関の扉が開くとその向こうは外ではなく別の部屋に繋がっていて、そこではソファに座った男女が談笑していた。一方は妻で、もう一方はあの日姿を消した友人だった。二人が休日の予定を話し合っている部屋の脇には大きな仏壇があり、中には私の遺影が飾られていた。やがて娘がランドセルを背負って駆け込んでくると、私の妻と私の友人が私の娘をほほえんで迎え入れた。
 もう一度玄関の扉を越えて娘が死んでいたリビングへ戻ると、そこには遺体があり、しかしその髪の毛は頭から剥がれ落ちていた。髪が外れて現れたのは私にとてもよく似た男性で、どんなに恐ろしいものを見て死ねばこんな顔になるのだろう、と思った。


散文(批評随筆小説等) 再度の怪 Copyright 阪井マチ 2019-04-21 02:32:41縦
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