赤い本、赤い町
阪井マチ

 私がその古道具屋を出てから間もなく、注文した本が自宅に届いたと知らせがあった。その本は鍋料理のレシピ本であり、失踪した料理研究家の最後の著書だという。料理は普段ほとんどしないのだが、表紙に載っているチゲ鍋の写真が妙に美味しそうでついつい買ってしまった。こういった買い物をするのは私にとって珍しいことではなく、部屋中の至る所に開きもしていない本が山積みになっている。昔、人から逃げるときに引き払ったアパートの部屋にも同じような山が何個もできていたが、今となってはそのうちの一冊すらも題名を思い出せない。その程度の思い出を積み重ねるために人生の大半と毎日の集中力を費やしてきた。それを空しいと思うことは滅多にないものの、妙に両手両足が震える夜には積み上げた本の山がぐぐっと伸びて私に倒れ掛かるような心地がするのだ。
 そう、こんな心地が……と思い返すうちに町中が火に呑まれて真っ赤に染まった。スローモーションの火事の映像を早回しで見るとこんな風に見えるとよく知っていた。古い紙はよく燃えるからね、と針金でできた人形が声を掛けていた。火を熾す錐、火に掛かる水、火に撒かれる人体、どれをとっても世界には不十分だと思えた。誰がそう思った? 尋ねながら歩いているのは、ああ、私じゃないか。全身に火を纏った姿で、手に持っているのは自宅に届いたはずのレシピ本のようで。燃え盛る私が私を懐かしく見つめていた。町中の消火栓が破裂して小さな消防団が現れて火に呑まれて消えた。ぱりぱりと音がして駅舎の屋根が割れ、そこから一冊の本が這い出ようとしていた。私はその本の引用符になりたいと思い出し、できるだけ大きな刃物を持って駅員になり替わろうとして涙が出て止まらなかった。


散文(批評随筆小説等) 赤い本、赤い町 Copyright 阪井マチ 2019-03-31 13:28:58縦
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