● 詩学 /語録の重み ●
足立らどみ

語録の重み

分析が、結局のところ我田引水になっていないかと
かなり長い間、心配していただけなのです。

〉分かっているよ。
〉偶然だよね?気にしなくていいよ。

最初に結果(ゴール)があるわけじゃなく
分析によって結果(ゴール)が生まれないと読む気がしない
都合の良い分析なんて見たくもないし
都合の良い結末ほど商業主義的でつまらないから

〉わかっているよ。
〉けど、書く詩毎(しごと)が仕事なので量産型の為なので

詩は日記ではないし、毎日作成できるものなのかわからない
SNSと同じで毎日の互いの安否確認のツールとして詩表現を
利用したいというるつぼに落ちてしまっているようにも思う、すでに

〉わかっているよ。
〉るつぼの中にいるのが楽なんだよね

詩のかけない私は詩を読む場所がツィッター化するのは残念だつた
詩が読みたいのであって、詩人の日常を共有したいのでないし
詩ではない詩人の日常使う普通の言葉が他の意味、重みを持ってたら
日常会話が困難なのではないのだろうか?
詩のせいにしているのだろうか?

勿論、例外は常にあり、それが英雄(ヒーロー)たちの言葉だ。
北島選手語録も、イチロー語録も、方向や結果を知っているから
聴くのだし、読むのだろう。

詩は、
総論として我田引水をした時点で終わってしまうように感じる。
各論として例えば意図的に引用してビルドられた実験詩とか
あるけど、まあ、先生のように解説するつもりはないので、
どうでもいいけど、元に戻って、だから、
詩人語録を読んだのならば不気味に感じると思う。
最近の日本語の乱れは、それなんだろうか。

言葉はその人特有のバックボーンがあってなりたつ
という考えが、上記、不気味さを補完してくれる。
読本としては小中学校の教科書によく載っている、
大岡先生の「言葉の力」という短文が分かりやすい。

それが嫌で、私は、横軸(百科事典)と縦軸(私の日記)
というページを開いていたけどとセルフプロデュースでいいが、
私の言葉にバックボーンを求めないで欲しいと
言いつづけてきた。
SNS開花前、バックボーンは事典ですと宣言することで
自由になれたんだ。
詩はそれではダメで、受けて立ちあがる矢吹ジョーが
必要なんだろうけど、私の言葉は詩ではないから
バックボーンは事典ですと宣言する(必要もなかったけど)。

私の言葉は事典から芽が出たものですから、
私の言葉の両親はいろいろな字書辞書事典辞典です。
お好きにサンドバックにしてトレーニングして下さい。
私の言葉は因幡の白兎のように毛をむしられてところ
どころ赤く染まっていて、それでもサンドバックに
利用してとは言いません。
バックグランドは辞書なので大丈夫です。
むしろ、貴方のコブシが心配です。練習はほどほどに。

さて、諦観して、今日も、
爺さん婆さん的には語録とか、もう少し下がって公開日記、
あるいはSNS、LINE、ゲーム内のチャット感覚の、或いは、
テレビ芸者と評判のあった大桃美代子さんの真似している人たちの
文章でも読もうかしら

さて、我田引水しているだろうか?
あなたの質問に答えているだろうか?


自由詩 ● 詩学 /語録の重み ● Copyright 足立らどみ 2019-02-03 10:21:01
notebook Home 戻る  過去 未来