飛ぶ夢など見なくてもいい
ホロウ・シカエルボク


狭い、ほとんど交通量のない道路に幽霊のように現れたプリウスのヘッドライトが、その存在の希薄さをあらわにしてやろうと企んだかのように私を照らしていく、どんなところに行ったって隠れる場所なんかないんだと、そう教えこんでやろうとでも言うように…古着屋で買ったコートに身を埋めて私は身体を守る、輪郭は仕方がない、けれどその中にあるものは譲るわけにはいかない、思えば、毎日がそんな戦いだった、どうしても相容れない両親や友人たち(はたしてそれを友人と呼んで構わないのか甚だ疑問なのだけど)、私は嘘の鎧を全身に纏ってただ腕時計の文字盤を眺めていた―楽しんでる振りをしながら―必要な会話なんてひとつもなかった、ただ調子を合わせて相槌を打っていればそれだけでいい、そんな会話ばかりが周りには溢れていた、もう何時間歩いているのだろう?私は時計を見た、午前二時二十分だった、もう二時間近くは歩いている、散歩に出ようと思ったのはほんの気まぐれだった、今日は特別眠気がなかったのだ、生活の中に押し込めている自分がいらだち始めたのか、先月くらいから私はあまり眠ることが出来なくなった、始めは苦しんだけれどいまは開き直った、ネットゲームをしたり、本を読んだり…録りだめていたテレビ番組を見たりしていた…それらを一通り済ましてしまうと、どうしてこんなことをしているんだと思うようになった、もっとなにか、眠れないなら眠れないときにしか出来ないようなことがしたい―真夜中を歩くとか―そんな気まぐれだった、たいした街ではない私の居住区は、陽が暮れるとほとんど誰も外に出ることはない、古くからの住宅街なのにまるで、ニュータウンのような独特の寂しさを醸し出す、もともと私はそんな時間に出歩くのが好きだった、年頃になると親があまり遅くに出歩くことを許してくれなくなって、出来るだけ下校時間を遅くしたりとかして、誰も居ない街を楽しむ工夫をしていた…そう、いまなら誰にも止められることはないではないか、ただそれだけの軽い気持ちだった、真夜中の街路に躍り出た私を待っていたのは、背中に羽が生えたみたいな爽快感と、安堵感だった、私はほとんど駆けるように街中を踏破し、住宅地の背後にそびえる小さな山を見た、夜の山は昔はなんだか怖いものだと思っていたけれど、いまそこに在るのは子供のような好奇心をそそるアトラクションのようなものだった、私はほとんど迷わずに木々に囲まれた小さな舗装道に足を踏み入れた、街灯のひとつもなかったけれど、月や星のあかりでぼんやりと明るかった、心が躍った、そんなふうに興奮したことなんてこれまでなかった気がした、私は実際楽しいと思うことがあまりなかったのだ、友達連中がカラオケなんかに熱中しているのを横目で見て、首を傾げたりしていた、私だって歌うことは好きだけれど、カラオケに合わせて歌うのは好きじゃなかった、それは歌かもしれないけど、音楽ではなかった、それに友達たちは、そんなに歌が上手くなかった―そんなことばかりだったのだ、それがどうだろう、真夜中の山道を歩きながら、私は冒険者のようにウキウキしていた、低く垂れた枝の下を潜るときなんかは、虫が潜んでいたらどうしようなんてハラハラもしたけれど…気づくとほとんど県境と言えるような場所まで歩いて来ていた、おや―?道の先からヘッドライトがやって来る、昼間でもこんな道を走る人などあまり居ないのに…見ているとさっきのプリウスだった、プリウスは私の正面に止まり、エンジンをかけたまま若い男が下りてきた、やっぱり、と高く枯れた声で叫びながら―「幽霊じゃなかったんだ」生きてます、と私は調子を合わせた、「困ってるなら送ってくよ?俺は遊んでるだけだから、気使わなくていいよ」いいです、と私は笑顔で答える「散歩なんで」へえぇ、と男は間の抜けた調子で言う、「あんた変わってんね」そして私の腕を取り車に乗せようとする、あぁ、なんか面倒臭い人だ…私はその腕を振り払い、ガードレールを飛び越えてその向こうに広がる急斜面を全力で走り下りる、マジかよ、という甲高い叫び声が聞こえる、その声は車に乗る、私の降りる地点まで急ごうというのか、物凄い勢いで走り出す、この期に及んでまだ私は浮かれている、面白いじゃない…プリウスは結構頑張って着いてきた、本当に面倒臭いなと私は思い始める、私は完全にハイになっていた、ある地点で待ち伏せして、エンジン音が近付いてきたところで飛び出す、プリウスは慌ててハンドルを切り、私はすんでのところで山肌に身を逸らす、プリウスはガードレールを突き破り、谷底まで激しく転がっていく、ドラマなんかでは爆炎が上がるのだろうけど、一通り転がり落ちると、あとはもともとの静けさが戻ってきただけだった、私は崖下を覗き込み、手を叩いて大笑いした、夜の散歩は病みつきになりそうだ。



自由詩 飛ぶ夢など見なくてもいい Copyright ホロウ・シカエルボク 2019-01-06 21:43:30縦
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