こらっ! 辺見庸!
一輪車

辺見庸の『もの食う人びと』が「紀行文学大賞」を受賞したとき、選考委員のひとりだった阿川弘之が辺見に近づいてこういったという。
「きみ、あれ恥ずかしくないのかね?」
あれというのは受賞作の最終章「ある日あの記憶を殺しに」の最後の場面である。

辺見はもと慰安婦と称する三人の老婦人とマッコリを飲み、歌をうたって、(「わたしはもう自害する」という)自称慰安婦のおばさんとのやりとりをこう書く。

  「死ぬのはもうやめてください」というと文さんがチャンゴ(杖鼓)の手を
  やすめて「“約束しますよ”」と答えた。私の父親の世代に当たる、たくさ
  んの日本の兵士の体に泣く泣く触れざるをえなかった手、そして50年後に包
  丁でその記憶のすべてを殺そうとした、温かくとてもとても優しい手を、泣
  きながら握りしめた。

「泣きながら、手を握ったなんて、きみ、あれ恥ずかしくないのかね」と阿川は言った。そして、「きみね、死にたいものには死んでもらえばいいんですよ。」と言い放ち、「えっ?」と仰天する辺見を残して去っていった。辺見は「恥ずかしい」には「けがらわしい」のニュアンスを感じたという。
彼はその暴言になにも反論しなかった自分を悔やみ、間髪を入れず「黙れ、ファシスト!恥を知れ!」と大声で叫ぶべきだったと『1・9・3・7 (イクミナ)』に書いている。


こういう言葉を目にしたとき、人生経験のない若い人はいきどおって阿川の冷酷発言に怒りを覚えるだろう。
しかし、わたしはちょっと違う。
望みもしないのに、かなりきつい人生を生かされてきたわたしの経験からいうと
阿川はたぶん正直者で善人だし、想像以上にやさしい人だろうということが、このくだりを読んだだけですぐにわかる。
自称「慰安婦」のお婆さんたちと直接、顔を合わせるようなことがあれば、阿川は、言葉をなくして、辺見のような真似はとてもできないだろう。身体を硬直させ、ただ、どういえばいいのか、どうすればいいのかわからず突っ立っているだけに違いない。

そもそも阿川が辺見のいうようなファシストだったら、書かれていたようなことはいわない。
阿川も作家の端くれだ。ましてこの世代の作家は羞恥とか含羞というものに敏感だ。
このような発言がじぶんをどれほど冷酷にみせるかということも、人間性としてマイナスにしか受け取られないだろうこともわかっている。
しかし、
辺見のようには振舞えない人なのだ。そのうえであえて辺見の"教条的"な態度や発言に怒りをぶちまけたのだろう。

わたしは辺見庸のような反日・反体制リベラル知識人をまったく信用していない。
日本人や日本の政体、社会、マスコミを口を極めて罵りながら「戦争翼賛出版社文藝春秋」(本多勝一)からもらった芥川賞をつき返しもしない。そういう御仁だ。テレビはNHKにしか出ない、新聞は朝日。そういう御仁だ。内外タイムスに出て、ピンク雑談の場で滔々と高尚な哲学的意見を述べ、逆に朝日やNHKではおちゃらけしか語らない所ジョージのような知性は持ち合わせていない。権威的なのだ。

日本の政体や日本人や日本社会文化を憎悪しているくせに、独裁言論弾圧国家中国を盲目的に持ち上げるその愚かさも噴飯ものである。

辺見庸はおそらく女性を骨の髄まで軽蔑しているのではないか?
自称「慰安婦」のおばさんの手をとり泣いて自害などやめてください、とやりとりしたことを書くが、恥ずかしいことだ。
そもそも女性ってそんなに弱い存在なのか。
阿川のようにあの当時の女性の、たくましく強い姿を知っていればとてもそんなアホらしい新聞記者的演技など侮蔑のきわみとしか思えないだろう。

固定観念だけで慰安婦とか売春女性をみているが、ほんとうはそんなものじゃない。
とくにあの時代、身売りした女性は、たくましく、強く、おおらかで、滑稽で、悲しく、また太陽のように明るい存在でもあったのだ。
『女衒』のような映画を一度みてみればいい。人間というものをあまりにも狭く一面的にしかとらえられないいまの視野閉塞狭窄した作家ども、とくにリベラルといわれる独我の研ぎ澄まされたゴミのようなやからには阿川のいうように、わたしも軽蔑しか覚えない。

とくにもっとも噴飯ものなのは、いわゆる意識高い系のインテリを自称するおばさんや文学青年が、
辺見のような御仁の本を読み終えるなり正義の月光仮面に変身したかのようにいきなりきっと目を吊り上げ、こうごちる姿である。
"日中戦争における日本人の残虐行為はけしからん"。
あほかっての。^^
それをいうなら、わたしたちは一人の人間として、いいですか、一人の人間として、どこの国籍にも人種にも国体にもとらわれない一人の人間として
過去二千年の歴史と全世界的な地域における残虐行為、殺戮行為としての戦争を省みて反省すべきなのであって、
"日中戦争における日本人の残虐行為"などというきわめて限定された期限と地域の反省などただの「政治的」発言にしか
還元されないのですよ。そんなものは、まったく何の意義もないどころか、意味としては中国や韓国、米国など〈国家〉の政治的道具として
大事な理念を売り渡すことになるのです。まだ、わかりません?








散文(批評随筆小説等) こらっ! 辺見庸! Copyright 一輪車 2018-12-11 05:54:34
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