老化について
一輪車

ふと思いついたのでメモがわりにここに書き付けておく。
最近、つくづく感性が老化したとおもう。
物事の受け取り方が平板になった。
発想もワンパタになった。
しかし、
それでも今の若い人たちよりは老いてないと思うのだな、これが。
それには根拠がある。
こないだ、わけのわからないネット上の"幽霊"のようなやつから
(男か女か、年寄りかガキかわからない、なにしろネット上の声しか聞こえない
相手だからわたしはとにかくただの"幽霊"としか思っていないのだが)
その相手は自称、女で若いという。しかし男言葉をわざと使っているのだと
主張する、そういう"幽霊"なのだが、
おまえたち老人は多くのものを失った、もう何もないという。
わたしは、大切な多くのものを失ったのはおまえのほうだと応えた。
たとえば、
公衆電話ボックスで順番を待つ時間を失っただろ、あの体験のないおまえはそれだけで
感性の大事な部分の発達を奪われたのだと。
するとその"幽霊"はつくづく呆れ果てたやつだというように
愚かなこといってんじゃないよ! と言葉を返してきた。
なにが愚かなものかとおもう。
わたしは文明発達の最先端をいまでも追い求めてもいる。
3DCGもやるしプログラミングもやる。
アラビア語も中国語もやっている。スケボーもサーフィンもバイクも
やる。
と同時に、昭和の体験もある。これらが噛み合って文学を立体化
している。
しかし今のガキには悲しいかな昭和の体験がない。だから文学の全体像に
触れることができない。つまり己の感性の欠落に気がつけない。
つくわけがない。あらかじめ奪われているのだから。
いや、
話がとんでしまった。こんなことをメモっておきたいのじゃない。
若さというものは、個人の一生の上での若さと
時代の若さというものがあるということを言いたかったのだ。
おそらく時代の感性のピークは19世紀から20世紀までのあたりだろ。
あとは時代としては、文明の発達とは反比例して時代的感性は老化に向かっている。
つまりこういうことだ。
わたしたちの感性は時代が老化に向かう直前のまだ豊かな感性を得る機会を
持つことができる人生を生きてきたが
いまの若い人たちは老人の時代に生まれたから感性としてはむしろ
わたしより老人である。
そういいたいのだ。
これはべつに大発見でもなんでもない。マルクスが自然哲学で予言していることだ。
人間は自然を内化し(自然を人工化し)、かつ人間を外化("ロボット"化)するまで進歩をやめないと。
つまり平たく言えば人間はいずれロボットになり、自然はいずれ人間になる(
人間の内部に取り入れられる=たとえばスマホが脳内に埋め込まれるとかそういう
ことだ)
そのような時代の人間にたとえば北原白秋の『邪宗門』のようなものが書ける感性が宿ることなど
ありえない。
しかしわたしたちの時代ならまだその感性に間に合った。
いまはもう、ドラマも音楽も詩もみな同じ顔だ。見る前から聞く前からわかる。
そしていまの若い人たちはむしろそのことに安心している。
その感性こそが時代の老化なのだが気がつかない。
だれもが老化している。
みんなわたしよりも老いている。
可哀想だけどしょうがない。蜉蝣のようにいずれ、てもなく滅びるだけだ。


散文(批評随筆小説等) 老化について Copyright 一輪車 2018-11-20 13:39:40
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