美しい詩
腰国改修

美しいし詩を書きたいと思っていた。しかし、よく考えたら美しいし詩は書けない。それは、責任ある詩は書けないという話の延長上に関係する話かもしれない。

そもそも、美しい詩などあるだろうか?たとえば、文字の並びが美しいとか漢字と平仮名の配分が美しいという詩はあるだろう。しかし、詩そのものが美しいということはない。

いや、たとえば美しい家族愛や、美しい山里の風景を書いた美しい詩があるではないかという方もいるだろう。しかし、それは、家族愛や山里の風景が美しいのであって、詩そのものが美しいとはいえない。書き手が家族愛や山里の風景という美しい対象をその詩作上の技法をもって写し取ったり、表現したりしているのである。殊に風景に至ってはどちらかといえば写真に似ている。美しいと読み手に想起させる技術がいわゆる「美しい写真」を生み出す。詩も同様じゃないだろうか。


再度言う。対象の美しさを表現する上で美しさを詩として創り上げることは出来るが、美しいし詩を書くことは出来ない。

さらに、自分はこの対象が美しいと思って詩を書き上げ発表したら、期待に反して「『美しい』ですね」という声は聞けなかった。対象の美しさを表現する書き手の腕が悪いのか、選択した対象がいわゆる一般受けしなかったのかなど原因はある程度考えられる。虹やオーロラを詩の『材料』にすれば、一般的に脳内再現しやすく、多くの人間が美しさを感じるだろうから『美しいですね』となる。それでもそれは詩の対象物が美しいのであって、美しい詩とは言えないだろう。

大方の人は下半身が半分腐敗し、上半身はきれいなまま眠るように死んでいるネズミの死体に美しさを感じない。詩を書く人間は、一般的に「それのどこが美しいの?」というものを詩を書く人間であるからもっている、いわゆる詩人の目で、その対象の美しさを表現するのが一つの骨頂ではないかと思う。前述のネズミも残された上半身の毛並みは薄っすらと輝くようで、目を閉じた顔は安らかそうだ。私は以前そこに美しさを感じた。そこで、それらの表現を組み込んだ詩を見せると読み手も「何だかきれいな詩(美しい詩)だね」と、まあ、そんなこともあった。

しかし、なかなか美しい詩であれなんであれ、上手く書けないのは、冒頭にも書いたように責任ある詩は書けないという問題があるからなのではないかと思う。言い換えれば、書き終えた詩は書き手の責任能力を超えるということではないか。と書くと「私は責任感をもって詩を書いている。そんな無責任ではありません」、「俺の言葉は俺が責任をとる」などと思う人がいるかもしれないが、残念ながら書き手の責任は書き終えて他人に見せた瞬間になくなる。もっと言うと詩を書くということと責任や責任感というものは違う世界のものだと思う。だから、無責任に書けばいいというわけでなくて、責任云々は置いといて詩作に取り組むほうがいいと私は考える。なかなか詩が書けないという人は得てして責任感が強く、詩作と倫理観を分けて考えることが出来ない人が多いのではないかと思う。もしそうなら時にはいい加減、適当、無責任に詩を書いてもいいんじゃないだろうか。もちろん他人の評価など気にせずに。

最後に余談だが、詩は死に通じる。というとダジャレのようだが、いわゆる死化粧というものがある。それは詩に化粧と言える。吐き出した言葉はその瞬間からは書き手の言葉としては死ぬ。だから、詩を書く人はそれら死んでしまった言葉に化粧をしてあげる。そうすれば美しい詩は書けないとしても、死化粧された詩は、書けるだろうし、最低限の責任のようなものも全う出来るのではないかと思う。ひょっとすると、それが美しい詩の一つと言えるのではないだろうか。

と、日々あれこれ考えながら詩を書いていきたい。







散文(批評随筆小説等) 美しい詩 Copyright 腰国改修 2018-11-01 09:12:41
notebook Home 戻る  過去 未来