偽文集
春日線香

見たところ肝臓のようだ。中学校の階段の踊り場の高窓から差し込む夕日に照らされて、赤黒い肉塊が落ちている。まるで今しがた体内から摘出したばかりとでもいうようにてらてらと艶めかしい輝きを放って、よく見ればその端がわずかに踏みにじられて床になすりつけられた跡がある。おそらく上靴で踏まれたものであろうその跡は筋状になって上階へと続いている。よく掃除されて清潔な踊り場に教師も生徒も通らず、あって然るべき死体もない。ただ肝臓だけが夕日に照らされて急速に腐敗の度を増しつつ、どうしたことか強いスミレの香りを放っている。スミレの芳香が悪意を感じるばかりにあたり一面に漂っている。


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足が寒くて目が覚めた。寝ているうちに片足が布団から出てしまったらしい。なにか不安な夢から抜け切れないで枕元の明かりで足を見てみると、透き通った白魚が腿のあたりまでびっしりと食いついている。食いついたきりでぴくりともしないので生きているのか死んでいるのかもさだかではないが、やはりこれは生きている物の怪だろう。夜中の弱い明かりの下、白魚は食いついた足から吸う血によって徐々にルビー色に染まっていくのだ。


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「僕がその古本屋を訪ねたのは職業上の理由があったからで、それはある秘匿された情報の調査のためである。戦前、日本国の気象情報は軍部によってコントロールされ、敵国にはもちろん、自国の国民にさえ正しい情報が伝わることはなかった。元より古い時代の話ではあるので今更そんなことに興味を持つ人も少なく、戦前の気象情報には相当の空白があり、今日に至るまである種タブーめいた扱いを受けている。中でも昭和十X年に国土を襲ったXX台風は、物理的な被害が甚大かつその後の社会にアパシー的な無力感を生ぜしめたこともあって、本来ならもっと早くに全貌が詳らかにされるべきであった。しかし統制下ゆえに民間はおろか軍部にすら……」


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黄色のレインコートを着た人々が図書館のいたるところに配置されている。顔の部分が妙にうすらぼんやりしているので彼らは死者なのだとわかる。とはいえ、自分も同じような顔をしているのは明らかで、そもそもここに生きた人間が入ること自体が不可能なのだろう。いつのまにか塩素臭いレインコートを着せられて本の番をしている我々がこの職務から解放されるのはいつなのか、いやそもそも職務といえるのかどうか。棚から本を抜き出してぱらぱらと目を通しても、煤けたページに不明瞭な文字や図像が蛇のように蠢くばかり。呆れ果てて本を床に投げ落としても、次の瞬間には書架に新しい本が補充されている。棚から棚へ、部屋から部屋へ。時折すれ違う彼らの顔に絶望や恍惚を読み取ることは困難で、同じように、自分も自らの来歴すらわからなくなっている。レインコートの鮮やかな黄色だけがここでは神のごとく正しい。


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玄関まで水が迫っているのでどうしようかなと考えていたところに、甲斐さんがボートで来た。そこら中で孤立しているので拾ってまわっているそうだ。ここもあと一時間もすれば完全に水没するというので、慌てて最低限の荷物を背負ってボートに乗り込んだ。見知った街が変わり果てているのは悲しいことだが自然の暴威は仕方ないことでもある。ボートの備えがあってよかったねえあんたは昔から心配性だったからねえなどと話している最中に、そういえば、と突如気がついた。甲斐さんは八年も前に癌で死んでしまったではないか。これはとうに死んだ人の操るボートではないか。水をかき分けていくボートの周囲に夢のように鮮やかな桃色の花が漂ってきて、甲斐さんと私はさざめく水面をどこまでもどこまでも運ばれていった。




自由詩 偽文集 Copyright 春日線香 2018-10-17 05:29:04
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