いつかすべては使われない部屋に放り込まれるけれど
ホロウ・シカエルボク



視界はぼんやりと霞んだままいつまで経ってもクリアにならなかった、水を浴びせても、指で拭ってみても―軽く叩いてみても。世界はなにか大事なことを誤魔化しながら慌てて暮れていこうと目論んでいるようだった。多少強引に噛み千切った左手の人差し指の爪の端から微かに血が滲んでいて、それは俺を苛立たしい気分にさせた。この街に住む様々な人間の焦燥と、際限なく行き来する車の排気ガスが、黒雲のように寄り合って、そいつらの内臓を食い漁っているみたいな夕暮れだった。古い、色褪せたアスファルトは錆びたような臭いを立ち昇らせ、それが含んでいる湿度は幼いころのあまり喜ばしくない記憶ばかりを呼び起こさせた、そのすべてはいまの俺にとってはどんな意味も持たないものだった―クラクションの音が聞こえる、辺りをぐるりと見渡してみたけれどどこでその音がしているのかまったく分からなかった、近頃じゃ母親の乳を欲しがる赤子みたいな調子でハンドルを叩いているやつらばかり、たった数十年の人生のすべてを無条件に肯定して生きているやつら―そんなやつらが後生大事に抱えているささやかな成功など取るに足らないものだ…手近な本に書いてあることなど明日にはもう価値が変わってしまう、行き交うやつらの顔からポエジーが見えなくなってもうしばらく経つ、昔はそこらへんでだって見つけることが出来た、自分なりの人生の泳ぎ方や語り方といったようなものを―それはそいつが自ら流れのなかに飛び込んで掴み取ったものだった、いまそんなものを持っているやつはほとんどいない、誰もがあてがわれたものを上手くこなすことだけを考え、その出来如何で自分の価値を設定している、真面目さもいびつさも強さも弱さも、すべてその枠の中だけで設定されて、それで何の問題もないというふうに出来上がっている、俺はいつでもその枠から外に出る、その中での規則に従うことを拒否する。枠の外に出て、にやにや笑いながらそんな浅ましい踊りを見物しているのだ、それはテレビで頻繁に歌っているアイドルグループと大差ないものだ、教えられたままに踊り、誰も本当に声を上げてなどいない。横断歩道を渡る、シグナルは点滅を始めている、クラクションが鳴らされる、誰もが誰かに噛みつきそうな顔をしている、でも本当に噛みつくやつなんてひとりもいない、安っぽいハッタリだけで生きていくやつら、相手にしたところで何の得もない。太陽が翳ると途端に冷たい風がペラペラとまくし立てる、身を縮めながら一番近くの自動販売機まで歩いたけれど、そこにはまだ温かい飲み物は用意されてはいなかった、照明を消しているので環境に気を使っていますとぬかす四角い箱、ここにもハッタリが横行している、ムキになって電源プラグを引き抜いたりはしない、どうせ世界は嘘で出来ている。公園のベンチに腰を下ろして短い詩を書いた、いまのところ誰に見せるつもりもないものを。街灯たちが矢継ぎ早に目を覚ます、完全に陽が暮れてしまう前に、心があらわに晒される暗闇に包まれる前に―隠しながら生きていくことが大好きなやつらのために秩序は存在している。公園をあとにしてあてもなく歩いているとようやく温かいと書いてある自販機を見つけた、でもその時にはもうどんなものも飲みたくはなかった、欲望のほとんどは気まぐれとまぼろしで出来ている、そしてそうでない欲望のために俺の心臓はいまでも動いている、ああ、たくさんの言葉で俺の人生は塗り潰された、なのにまた新しい一行を書こうとしている、ひとりになりたいのか孤独になりたいのかずいぶん時間が経ったいまでもまだ分からない。だからこうして街の中を漂っているのだろう―不運な誰かの悲鳴を代弁しながら救急車が交差点を走り抜けていく、今日の死亡者数という掲示板のことを俺は思い出す、あれが見たい。あれはいまでもあるのだろうか、もうしばらく目にしていない気がする、身も知らぬ誰かの死が退屈凌ぎになるなんて素敵なことじゃないか。今日はもういい、もう充分だ、俺は家に帰ろうと思う、夜になってしまえば視界のことなんかどうだっていい、そろそろ晩飯の時間だし、寝る前にはシャワーも浴びておきたい、そうさ、片付いてることなんていつだってそんなにはないんだ。



自由詩 いつかすべては使われない部屋に放り込まれるけれど Copyright ホロウ・シカエルボク 2018-10-13 22:11:57
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