幽霊の感触―即興詩の試み
春日線香

幽霊に触ったことがある、と話してその日は家に帰った。心の隅にざわざわと騒ぐものが現れて遅くまで眠れない。布団から起き出してコップに牛乳を注ぎ、壁の前で飲み干す。一人で暮らしている私の肩に触れる無数の干からびた手があり、その来歴を書き記さねばと思う。


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南瓜を切ろうと包丁をぐっと押し込んだ拍子に刃で指を叩いてしまう。幸いにも深い傷にはならずに絆創膏を貼ってことなきを得る。が、何日かはやはり不便だった。怪我をしていることを忘れてドアノブを握ったりして不意に痛みが蘇る。書く文字も虫のようになった。


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やり過ごせばいいと考えている。溜まった洗濯物をどうにか片付けて、先送りにしていけばいい。その都度考えればいいと、今は楽な姿勢で本でも読んでいればいいのだと。窓から眺められる近所に工場の煙突があって、晴れた日には煙で雲と大気と繋がっている。


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博物館のエレベーターで上に運ばれる。その後に地下へ。構造の中で身体が物体となる。ガラスケースの中の類人と目を合わせて、唇の端で薄く笑ってみる。組み合わされた標本のラベルを読むために身を屈める。背中の骨が一斉に動く。


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地下鉄の出口ではいつも風に吹かれる。シャツの裾がはためいて、この時をいつまでも残しておきたい。信号は赤から青へ。分岐から分岐へ。落ちるような穴は見当たらない。地獄の入り口を象徴する巨人の大口、そんなものは存在しない。


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本当に?


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遠くで自転車が滑ってこけたので走り寄っていく。声をかけてみるがそそくさと離れて見えなくなってしまった。その後はまた小銭を数えて鶏肉を買い、野菜ジュースも買う。ハクビシンが電柱を器用に登るのに出会う。家に戻って電気をつける瞬きの間に、影が逃げる。


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向かいのアパートにカーテンのない一室があり、部屋の中がよく見える。家具はなくがらんとしている。住んでいない。決まって午後六時に明かりがついて、たぶん明け方まで。幽霊が幽霊の家具を使って幽霊の食べ物を食べている。というわけでもなく。


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時計は壊れる。時間が止まって水槽の中での生活が始まる。廊下の電気は長いことちかちかしているのでもうじき暗闇になるだろう。首に縄が巻きついている。野菜室では生ゴミが霜に覆われて干からびている。腕が空中で揺れる。足が空中で揺れる。


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犬の尻尾が空から垂れ下がって動いているのをなんとか捕まえた。抜けてしまわないのを確かめて体重をかける。地上にはメリーゴーランドが回り、ピエロが風船を配っている。ピエロの風船が風に流される。風船にはピエロの笑い顔が描かれている。


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本当に?


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幽霊に触ったことがある。小学校の六年生の時、夜眠れなくてベッドでごろごろしていると、全身が靄でできたような人影が部屋に入ってきた。そいつは寝ている私に手を伸ばした。不意のことだったので慌てて手を出して握ってしまったその手の感触を、今でも憶えている。




自由詩 幽霊の感触―即興詩の試み Copyright 春日線香 2018-10-09 23:45:33
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