洪水
春日線香

玄関まで水が迫っているのでどうしようかなと考えていたところに、甲斐さんがボートで来た。そこら中で孤立しているので拾ってまわっているそうだ。ここもあと一時間もすれば完全に水没するというので、慌てて最低限の荷物を背負ってボートに乗り込んだ。見知った街が変わり果てているのは悲しいことだが自然の暴威は仕方ないことでもある。ボートの備えがあってよかったねえあんたは昔から心配性だったからねえなどと話している最中に、そういえば、と突如気がついた。甲斐さんは八年も前に癌で死んでしまったではないか。これはとうに死んだ人の操るボートではないか。水をかき分けていくボートの周囲に夢のように鮮やかな桃色の花が漂ってきて、甲斐さんと私はさざめく水面をどこまでもどこまでも運ばれていった。


自由詩 洪水 Copyright 春日線香 2018-10-09 01:51:20
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