海上へ 2018・7-8
春日線香

いつからか歩道橋の上に車椅子が放置されている。まるで車椅子だけ残して誰かがそこから飛び降りたようでもあるが、幸いなことにそんな話はないようだ。車椅子は見るごとに位置を変え、ある日は歩道橋の中心に、またある日は極端に端に寄ってほとんど階段から落ちそうになっている。むしろ落ちてしまえばいいと誰もが思っているがなかなかそうはならず、陽の光を浴びて順調に錆びつき、時々は蝶も留まっていく。


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いい大きさの箱の中にかぶと虫を詰める仕事をしている。それは静かな夜明けから始まり、広い屋敷の片隅の部屋でたんたんと続けられる。たまに庭から吹き通る風にあおられて、箱が倒れて中身がこぼれてしまうが、また丁寧に元通りに箱を仕立てていく。そんな時はかぶと虫も死んだようにおとなしくしているのだ。


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時々夢に出てくる部屋があって、さっきもそこに行ってきた。大勢の手品師が町外れのソーラーパネル建設について話す中、自分はうつむきながら卓子を拭いている。あそこには昔からきれいな花畑があって、うちらの仲間もたくさん眠っているんだよ、と古株らしき人物が言うのを、ほかの人々は神妙に聞いている。全員が白い蓮華草を手にしている。


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鬼の瞳を拾う。とても貴重なものなので大急ぎで懐にしまいこみ、何食わぬ顔で日陰に移動して眺めてみる。灰色と薄紫色の中間の色彩には深海を思わせる深みがあって、世界の真実がここにあると思わせる存在感を放っている。右目だろうか左目だろうか。鬼は瞳を奪われてどんな苦しみを、どんな絶望を感じているだろうか。失った瞳が生え変わるのには長い年月がかかるだろう。嬉しい気持ちで握りしめる。それは硬くひんやりと冷たい。


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死んだ人ばかりの町で悪口を言いながら酒を飲む。その後は近くのダムから流れてくるせせらぎに沿って歩き、誰もいない土産物屋を覗いて、峠にへばりついている古い駅に辿り着く。そこではほとんど無言だった。駅舎の屋根越しに峰が輝き、美しい三つ子のように並ぶ塔の周りを大勢がそぞろ歩くのが見える。高原の爽やかな風が首筋に触れる。


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夜、自分で自分の髪を切ってお湯で流したところ。外では風が吹き荒れ、窓に重い空気の塊が当たる気配がする。奇妙に空腹ではあるけど食べないほうがいいだろう。そっと自分で自分の頬に触れると、顔がある。幸福でも不幸でもない。速度の遅い台風が今、東の海上に逃れていくらしい。





自由詩 海上へ 2018・7-8 Copyright 春日線香 2018-09-09 00:46:41縦
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