陽炎
ホロウ・シカエルボク


夜の在りかたはきみを気にしなかった、ただ次第に濃度を増して、それから失くしていっただけだった、きみは寝床に横になってはいたが、まんじりともしなかった、そして、頭の中にあるおぼろげなメロディーについて少しでも多くの情報を記憶から絞り出そうとしていた、夜が明ける少し前から、そのことに躍起になっていたが、一時間経っても二時間経っても情報は更新されなかった、眠っていないせいなのかもしれないし、もしかしたらいつもなら気にも留めないようなささやかな断片に過ぎないせいかもしれなかった、ただ寝床に横になったまま、眠れず、起きることにも踏ん切りがつかないような気分で出来ることといえばそんな記憶で遊ぶことくらいだった、とはいえ、遊びにしてはきみはすこし躍起になり過ぎたかもしれない、数時間、いや数十分だけでも眠っておくべきだった、きみの今日の予定は、あと一時間もすれば起き出して出かけ、地下鉄に乗って仕事場に行かなければならなかった、休んでしまおうか、と、ぼんやりした頭できみは考える、きみの仕事場はそのことについてあまり煩いことは言わない、良くも悪くものんびりとしたところなのだ、必死になって何かを売ったり、サービスを提供したりするような仕事じゃない、だれかひとりぐらい休んでいることなんかザラだったし、だれかが休んでいることで支障が出るようなこともこれまでに一度もなかった、やることがないわけではない、でもそれは少しも急ぐ必要のないことで、一日数時間ひとりで、あるいはふたりで世間話でもしながらやればいつの間にか終わっているというようなものだった、だから今日きみが休んだところで、「困るよ」なんてだれも言わなかったし、「出てこい」なんて強要されるようなこともまるでなかった、そのことはわかっていたけれどきみはもうすこしギリギリになるまでそのことについては考えないことにした、きみはまだおぼろげなメロディーを思い出すことに執着していたのだ、必死に考えているうちにきみは眠り込んでしまう、タイム・リミットまであと数十分というところで…目が覚めたときには昼過ぎだった、なにか長い長い、とてもリアルな質感のある夢を見ていた、ここはどこなのだろうか、と目覚めてすぐにきみは戸惑った、そのために眠っていたときのすべての事柄は忘れ去られてしまった、なにかとても現実感のある夢を見ていた、そんな感触だけが全身の細胞に残っていた、その感触がきみをおかしくさせたのかもしれない、仕事場に連絡を入れておいたほうがいいことはわかっていたが、きみはそれをしないことにした、寝惚けていて、正しい判断が出来ていないのかもしれなかった、確かに、その時点ではそうかもしれなかった、きみは夏だというのに真っ黒いデニムパンツと、真っ黒長袖のシャツを着て外に出た、催眠術にかかったみたいなぼんやりとした様子だった、ホームセンターでハンマーを買った、そのときにはまだきみ自身にもわかっていなかった、きみはそれから地下鉄に乗ってとなり街まで出かけ、最初にすれ違った女子高生を一撃で殴り殺した、きみはそのまま歩き続けた、そこは寂れたニュータウンで、めったにひととすれちがうことなんてなかった、きみの凶行を目撃したものもだれも居なかった、そしてそんなことはきみにはどうでもいいことだった、それどころか、自分がいまなにをしているのかということさえも、きみにとってはどうでもいいことだった、つぎは住宅地の少し奥のほう、ほんの少し急な斜面を上って行った先でひとりの老婆とすれ違った、老婆はにっこり笑ってこんにちはと言い、きみも笑顔でこんにちはと返した、年寄りになにもするつもりはなかった、それはきみの主旨とは違っていた、だからきみは歩き続けた、そのニュータウンを端から端まで…そして小学校高学年と思わしき男の子をやはり一撃で殴り殺してから、もう一度地下鉄に乗って自分の街に帰った、地下鉄に乗り込もうとするときかすかにパトカーのサイレンを聞いた気がした、きみのしたことに関係があるのかもしれなかったし、ないかもしれなかった、そしてやっぱりきみにとってはそんなことどうでもよかった、地下鉄の駅から地上に戻ってきたとき、仕事場に連絡を入れようという気分になった、スマホを取り出して適当な用事をでっち上げて無断欠勤を詫びた、きみは普段そんなことをする人間ではないので、仕事場の人間は快く許してくれた、きみは安心して電話を切った、とても喉が渇いていた、きみは自動販売機を探した―まったくこの夏は暑くて仕方がない、小銭を取り出して投入する、その渇きだけはすぐに癒すことが出来る。



自由詩 陽炎 Copyright ホロウ・シカエルボク 2018-08-09 22:45:05縦
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