初めて燃える山のように 前編
竜門勇気


僕が師匠と呼ぶ人がいた。
僕の家から自転車で10分ほどの前山(はしたやまと読む)の中に居を構え、仙人としか言えない暮らしをしていた齢は60代成りたてといった風貌の男だった。
そもそもが彼が落とした空き缶を拾ったのが付き合いの始めで、最初はただの浮浪者でしかなかった。いや、最後まで一浮浪者だった。

おじさん、落としたよ
空き缶を放る。
彼は振り向きもせず、それを背中で受け止めて膨らんだナイロン袋の乗った自転車を押し続けた。
お父さん、拾わなくてもいいがここにそのままってのは無しだ。
落っこちた空き缶を持って僕はその背中に語りかけた。
どうしたってこんな事になってるのかは知らないが、あんたがここまで持ってきたんだ。
こんなゴミはどこにあったって一緒だ。だから、今日は持ってけよ。
背中は何も語らなかった。口もそうだった。僕の耳も何も聞かなかった。
僕はその時ひどく意固地な人間で(今よりは幾分か)正直な人間だったので、言葉が帰ってこないことに苛立ち、また彼となにか話をしてから家に帰りたいと思っていた。
何度もおなじような言葉を投げかけながら歩いていると、ふと彼が歩みを止めた。
しゃん、と自転車の袋が鳴った。
彼は袋を持ち上げ、あたりにばら撒いた。いつの間にか周りは木々に覆い隠された小さな小屋の軒先になっていた。
しゃん、しゃん、しゃん。
落ち葉の下から虫けらが飛び出す。その後少し間をおいてのそのそとヒキガエルが迷惑そうな顔で斜面の下へ溶け落ちるように降りていった。
ギラギラと空き缶が夕日を反射した。
彼は埃なのか、衰えの一部なのかくすんだ艶のない顔で木立の影に視線をやった。
突然、耳元で大声が聞こえて身をすくませる。人のようで人でない声。
あぁ!あぁ!カラスだ。
その鳴き声から一瞬遅れて空気を叩く翼の音が聞こえた。
空き缶を咥え飛び去る姿を僕は憮然としてみていた。
これは、何かの答えではない。そう思ったからだ。
視線を彼に向けようとしたが、もういなかった。
ため息をつこうと息を吸い込んで胸が膨らむ。小屋のドアがぎい、と開いた。
彼はこちらに一度向いて、少し微笑んだ。どんな子供より混じりけのない笑顔だった。
杖を持っている。僕が気づくと同時に彼はその先を持ち上げてカラスの飛び去った方へ向けた。
彼は、またな、と言った。
木立の向こうでああ!と聞こえた。

だから、僕は彼を師匠と思うことにした。
彼はサントリーの角瓶を僕に渡した。
ウィスキーもブランデーもジンもウォッカも混ざりあった酒だった。
僕はそれを受け取った。彼がそれを僕に渡した意味は、教えを請うものが酒をつがなきゃいけない。
それがわかったからだった。


散文(批評随筆小説等) 初めて燃える山のように 前編 Copyright 竜門勇気 2018-07-31 11:41:14
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