坂井信夫『黄泉へのモノローグ』について
葉leaf

 詩において定型は韻律でありリズムである。と同時に、定型は認識の枠組みであり、ストーリーの大枠である。コミュニケーションの観点から言うと、定型によって読者は気持ち良く詩行を受容し、また一度定型に慣れてしまえばスムーズな情報伝達が行われる。
 本詩集『黄泉へのモノローグ』において、坂井は一つの定型をいくつにも変奏している。ここには、人間というもの、世界というもの、黄泉というものに対する一つの認識の枠組みが提示されている。坂井は自らを、そして読者をこの定型による認識に縛り付けようとするのだ。
 夢からの目覚め、死者との出会い、映画館への移行、それは何かを象徴しているのかもしれないが、象徴関係はさして重要でない。その非連続で飛躍に満ちた認識の枠組みが、人を世界などに対する奇妙な態度へと導くのだ。ここに提示されているのは世界などに対する通常の認識枠組みではない。あくまで通常の筋の運行からどこまでも逸脱しようとする認識が提示されている。そこに要求される認識の更新、認識の再創造、それこそまさに批評であり詩なのである。新たに獲得される認識の角度により、人は世界などに対する批評的態度・詩的態度を身につけることができる。ちょうど解剖台の上でミシンと雨傘が出会うように。
 さて、本詩集で坂井が成し遂げていることはそれだけではない。これだけの定型の繰り返しは、一篇の詩編ごとに一つの世界を作り出す。詩作というのは一つの可能世界を作り上げることだが、ここには詩編の数だけ可能世界がある。
 ここまで世界が増殖させられるとその行き先が問題となるが、坂井はそこに聖なるものを配置することにより構造を生み出した。それが死者との接触、黄泉との接触である。可能世界が限りなく増殖していく、いわば世界のインフレーションの現場で、そのインフレーションを秩序付けているのが黄泉という聖なるものによる中心化なのだ。世界はどこまでも増えていきながら、すべて黄泉へと収束する。黄泉は中心であり、世界を生み出す源泉であり、すべての可能世界を秩序付ける。
 さて、坂井の本詩集は、認識論的に見ても存在論的に見ても面白いものであった。では認識論的側面と存在論的側面との接合はどのようになっているか。定型による認識の更新、定型による存在のインフレーション、存在と認識に先後関係はなく、存在と認識は循環するのみである。認識が更新されることによるさらなる存在のインフレーション、存在が聖なるものに中心化されることによる認識の秩序化。様々に解釈されうるだろう。
 坂井がなぜこのような定型を取り、なぜ黄泉を志向したのかその真意は分からない。だが、この定型や構造は以上のような詩的効果を生み出すのであり、それは十分成功している。


散文(批評随筆小説等) 坂井信夫『黄泉へのモノローグ』について Copyright 葉leaf 2018-07-29 03:14:45縦
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