雨とモスキートコイル
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 雨の日だった。皆が傘を持ち、その分、満員電車はいつもにも増して隙間が少なかった。他社線が停まる駅で、乗客の多くが降りた。乗り込んでくる客に押されながら、ようやく身体を入れかえると、目の前に見慣れた後ろ姿があった。ドラマーの保坂である。
「おい、保坂、ちゃんと練習してきたか?」
 保坂は応えない。
「てめーは朝からシカトかよ」
 おれは、保坂の尻の当たりを傘の柄でグリグリと弄る。それでも保坂は何も言わず、混んでいる車中で、おれから離れようとする。おれは意地になって、保坂の尻を傘の柄で突く。学校から最寄りの駅までその行為はつづき、扉が開いて、学生たちは、押し出されるようにホームに散る。保坂が逃げる。おれは、そこで気が付いた。あれは保坂ではないと。
だって、あいつは黒い学生服を着ていたから。
おれの学校の制服は紺色だったのだから。

 学園祭が、おれたちのデビューだった。ギター二本に、ベースとドラム。四人編成のバンドで、モスキートコイル、と名乗っていた。今日がその晴れ舞台の日なのだが、あいにくの雨。おれは、他の学校の奴の尻を弄り、何か縁起が良くない気がしていた。
 学校に着いて、貸しきりになっている教室に入る。前日にセッティング済みの楽器やアンプ類を再チェックしていると、ギターの多田と野田が入ってきた。
「近所の女子高から何人くらい見に来るかな」
「十人は堅いんじゃないか?」
 ナンパな野郎どもだが、こいつらは、まあいい。それなりに弾くし歌う。問題は保坂である。あいつは長髪と甘いマスクで、見てくれはバリバリのミュージシャンだが、ドラムの腕はからきしであった。当時は、貸しスタジオなど、荻窪の新星堂にしかなく、レンタル代も高価で、高校生の小遣いでは、滅多に使うことはできなかったのである。ドラムの練習などする場所がなく、下手糞なのは仕方がないともいえたが、ドラムセットを持っている、というだけで、保坂はモスキートコイルのメンバーになったのである。

 会場が十時四十五分、開演は十一時で、持ち時間は三十分。演目はジョン・レノンの『ニューヨークシティ』から始まって、外道の『アロハ・ババア』やウイッシュボーンアッシュの『剣を捨てろ』などなど。
 楽屋にしている隣の教室からベランダに出て会場を覗くと、雨にもかかわらず、客の入りは良かった。楽屋では、メンバーが思い思いの服に着替えている。三人は 当時流行ったコンチネンタル系のファッション。楽器やアンプでいっぱいいっぱいのおれは、そんな服を買う余裕はなく、上半身裸にオーバーオールのジーンズといういで立ち。
 さて、時間になった。会場はほぼ満席。女学生の顔もちらほら。
 オンステージが始まった。記念すべきデビューライブ。一曲目から保坂のバスドラとおれのベースが合っていない。おいおい。おれは今日のために随分練習したんだぜ。初っ端 からぶち壊しやがって。ギターの二人も緊張している。彼等は交互にボーカルを取るが、声が震えているし、ミスタッチもいつもより多い。そんなことを考えているおれも、緊張のせいか、ベースを弾く指が、滑らかに動かない。
 まあ、そんなこんなで、バンド、モスキートコイルのデビューライブはあっという間に終わってしまった。本当にあっという間だったけれど、おれには達成感らしきはあった。隣の楽屋に戻ってきて、次のバンドのMCを聴きながら、窓際の日が差している床に寝ころぶ。少し汗ばんだ背中がひんやりして心地よい。ああ、いつまでもここでこうしていたい。
 楽屋にしている教室の戸が空いて、複数の女の声がした。きっと付近の女子高生だろう。女慣れしている多田と野田が応対している。
「ファンになりました。次のステージはいつですか?」
 そんな会話が聞こえてくる。どれどれ、おれも女子と話そうかな。そう思ってひんやりしたタイルから身を起こし、扉に近づいてみると、彼等は既にそこにはいなく、廊下をひと固まりになって、楽しそうに歩いて行ってしまった。ああ、取り残された。まあいいさ。女に慣れていないおれは、どうせろくに会話に交じることは出来なかっただろうし。

 学園祭が終わると、メンバーの結束は弱まってしまった。というよりも、バンド原理主義のおれに他面子がついてこなくなったというべきか。多田と野田は、あの時楽屋に来た女子たちをバイクの後ろに乗せて遊び呆けていた。一番ルックスの良い女子は、保坂に興味を寄せ、ふたりは付き合うようになったらしい。
 数か月後の、ある雨の日、放課後に、相合い傘で駅に向かう保坂と美人の彼女を、おれは嫉妬交じりで見ていた。そして、おれにとってはかけがえのない、ひとつの季節が終わってしまったことを知ったのである。


散文(批評随筆小説等) 雨とモスキートコイル Copyright MOJO 2018-07-18 08:27:09縦
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